水海道来住の郷士

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[正平一八年/貞治二年](一三六三)、佐竹義篤没して長子義宣が常陸守護職を継いだ。一子の宗義は常陸国久慈郡石塚(常北町)に分家し、さらに水海道市域の大生郷や花島に分岐した。大生郷の石塚大膳家屋敷地の西南隅に永和期(一三七五~一三七八)と判読できる板碑があり、これは初代宗義を供養したものであろう。大生郷へは永正九年(一五一三)の板碑から推して戦国の世になってから移住したものと考えられるがその後、馬牧地大野を開拓して飯沼郷から大生郷を分立している。
 また、花島には石塚左京家が石塚城より移り住み後に五家(ごか)(水海道市三坂町五家)にも別家を興している。これら石塚諸家の常総地方への土着を頼って来住した郷士が数多くいたと思われ、水戸(馬場)城主、江戸氏一族などの来住もこうした経緯をもつものと考えられる。