小山氏と田村氏

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小山氏は朝郷の時は南北両朝に対し曖昧(あいまい)な態度をとったが、弟氏政を経て、その子義政に至って、管領足利氏満が小山氏領の下河辺荘を執事上杉氏に譲ったので義政は[天授六年/康暦二年](一三八〇)五月、小山の祇園城に拠って宮方(南朝)に応じて攻め寄せた武家方勢を撃退した。この時『常陽古戦録』によれば上幸嶋荘司幸嶋氏や志筑氏(下河辺政義の裔)らが戦死している。
 義政は翌[弘和元年/永徳元年](一三八一)と同二年二月、挙兵したが二度とも上杉方に降り、同三年(一三八三)八月、また、子の若犬丸と共に旗あげをしたが敗死し、若犬丸は陸奥三春城の田村庄司則義の許に遁れた。しかし、則義の子清包の援けを得て祇園城に帰っている。一説には三春城にて挙兵したという。これを管領氏満は古河城に至り討っている。その後[元中四年/嘉慶元年](一三八七)、宮方に立ちかえった小田孝朝が難台山(西茨城郡岩間町)に若犬丸をかくまったことは前記したとおりである。
 この三春城主田村清包の一族の子孫田村弾正が水海道城主になったことを説いてみたい。
 征夷大将軍坂上田村麻呂の子孫は陸奥に残ったが、そのうち関東に近いのは三春城の田村氏である。前記のように若犬丸を助けて破れ領地の三分の一を白河結城氏の有に帰し、一族には流浪する者ができた。そのうちには小山氏の親類結城氏、あるいは結城氏に親しい豊田郡大方郷尾崎の秋庭氏などをたよって、後に水海道に近づいて来た者があったことが察せられる。
 すなわち、日野王子(ひのみこ)神社(三坂神社)に田村麻呂駐屯の伝説がある。これは三春の田村氏一族が水海道へ南下の途、同神社に立ち寄ったことを住民の尚古思想からその後坂上田村麻呂伝説に結びついたものと考えられる。天文年間に至り尾崎城主秋葉大膳は下妻勢に降ることになるが、一族の子らを田村氏をたよって水海道に移らせている。そして天正五年六月、弾正が戦死すると、水海道実城(本城)城主に据えられている。この時高原氏・松信氏のような田村氏縁故と称する先輩や肩を並べる同僚がいたのであるが、田村氏との関係から城主になったのである。
 なお、田村氏系図にみるように、弾正や大膳という同じ官途のあることも同族である証拠である。
 

三坂神社