鎌倉公方

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室町幕府との対等意識を持つようになった鎌倉府は、応永五年(一三九八)一一月、公方氏満が没し、子満兼が継ぐといよいよ対抗意識をあらわにした。執事上杉氏を関東管領と改称し、さらに結城・千葉・佐竹・小田・小山・長沼(後に里見)・宇都宮・那須の八氏を八館(屋形)と称し公方の側近とした。
 佐竹氏では、応永一〇年(一四〇三)、上杉(山内)憲定の次子義憲を養子に定めたが、これを支持したのは江戸、小野崎の家老たちで山入与義など反対する一族間で応永一二年九月から約一年間にわたって内紛が生じ、ようやく山入氏等が屈服している。