禅秀の乱と常総

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憲定は京都管領斯波義持より施行状を受け、応永三年(一三九六)七月から同二二年まで、下幸嶋荘(岩井市・沓掛・百戸・若林を含む)を領有している。
 応永一六年(一四〇九)七月、足利持氏が鎌倉公方になると、叔父満隆のことから世情不安となり持氏は山内邸に移された。憲定は同一八年二月、関東管領職を犬懸家上杉氏憲(禅秀)に譲った。公方持氏と上杉氏憲の不和の原因は、家人越幡(小幡)太郎の所領(茨城町小幡)を些細なことから没収したためであった。禅秀は持氏の放縦な性格を諫めたが聴くどころか管領職を免ぜられた。
 不平を持った禅秀は、持氏の叔父満隆が野心のあるのをみて、これと結び反旗を翻すに至った。こうして関東は内乱情況を呈するのである。
 上杉禅秀は応永二三年(一四一五)八月、満隆とともに募兵の廻文を出し常総地方では千葉新介兼胤、相馬氏、大掾満幹、小田治朝等が応じている。豊田氏の態度は不明であるが恐らく千葉氏と同調したことが察せられる。争いは鎌倉において始まり、山内上杉勢には佐竹義憲が初陣し両家老が補佐した。千葉・相馬氏などは米町口を守り、結城基光は薬師堂を守った。
 持氏は山内憲基(義憲の弟)の佐介館に入ったが禅秀に攻撃され、駿河の今川範政に身を投じた。今川氏は将軍義持の教書を受け持氏を奉じて箱根を越えた。
 応永二三年(一四一六)一一月、禅秀の遣した軍勢は江戸氏・豊島氏の軍に破られたが、翌年正月の武蔵世谷原の戦いでは江戸氏等を破っている。しかし、今川勢の侵攻を知り急ぎ鎌倉に戻ったが敗戦し、一族と共に自殺して果て犬懸家は滅んだ。
 犬懸上杉氏は滅んでも戦いの余燼は各地方に残り、佐竹義憲は部将等を瓜連城に陣取らせ長倉城の長倉義景を降し、稲木城に稲木義氏を斬って平定した。戦火は瓜連常福寺にも及び、住持聖冏は横曽根の談義所(法性寺)に戦火の情報を伝えるなどしている。
 鎌倉には相馬氏館があり、持氏に抗したが、ここには水海道南部の相馬兵も籠っていたと思われる。戦後、相馬氏は領土没収をまぬがれたが、これは後の結城合戦に千葉氏に同行せず、また古河公方に忠誠を捧げる理由となった。
 禅秀の乱後、小栗氏は再び公方持氏に叛旗を翻したが破れて領土を削られたが、応永二九年(一四二二)にも挙兵し真壁氏もこれに応じた。持氏は自ら兵を率いて出陣し小栗、真壁の両城を降し小栗満重を自害させている。
 江戸氏は禅秀に味方した大掾氏の領土を佐竹氏より与えられ、応永三三年(一四二六)六月二一日、府中(石岡)の青屋祭を司るため参列した大掾氏の留守に乗じ拠城馬場城(水戸)を奪って勢力の拠点を確保するに至った。大掾氏はこの時大いに憤ったが、ついに城を奪回することは出来ず、やむなく府中にとどまることになった。ちなみにこの江戸氏の縁者が大生郷城に移ってくるのである。