将軍家と公方家の関係

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将軍義持は応永三〇年(一四二三)三月、子義量(よしかず)に将軍職を譲ったが二年にして死なれたので、持氏を養子に迎えようとした。しかし管領らの反対にあって中止して自ら将軍に再任したが正長元年(一四二八)没した。ここに三管四職らは義持の子の僧になっている三人のうち抽籤によって一人が選ばれた。これ還俗して再度改称した義教である。翌年、永享と改元されたが、持氏は一年間は改めなかったし、また、将軍の東遊にも迎えることがなかった。また、息子の元服式を鎌倉鶴岡八幡宮に挙げた際、将軍の諱(いみな)を受ける恒例に背き、義久と命名した。かねて将軍は、関東管領上杉憲実に持氏を監視させていたが、永享一〇年八月一四日、憲実は上州白井城に去った。これを追うため持氏は翌日、一色直兼に憲実を討たせ、自らは一六日、武州高安寺に出陣した。一方、将軍義教は憲実の報をうけ、上杉持房(禅秀次男)を遣わし持氏を討たせた。持氏が鎌倉にて勢力を失ったのは関東の諸将が見放したからで、股肱の臣三浦時高でさえ敵対し義久を捕えている。このことは後に、持氏の子成氏が古河公方となると弓田城主染谷義次など幸嶋郡の軍勢に三浦氏を遠征させる因となった。
 憲実の軍も鎌倉にせまったので、持氏は将軍に謝罪し、憲実も持氏の助命を乞うたが宥されないので、同年一一月一一日、永安寺(ようあんじ)に移り、自殺した。この内紛にまきぞえを喰って自殺した一色直兼の子孫は、天正一八年、小田原落城後、旗本になり、木野崎城(野田)に陣屋をおいて、横瀬父子が去ってからの菅生や大塚戸を知行している。