足利持氏自殺し、鎌倉公方はいったん滅んだ。事ここに至ったので、管領上杉憲実は弟清方に管領職を譲り隠棲した。持氏の遺児、安王丸と春王丸らは、通説は日光山中禅寺及び五十里村に遁れていたとある(「湘山星移集」「関東合戦記」)が、「筑波神社記録」では、筑波山中禅寺別当潤朝(小田氏、筑波氏の一族)の父玄朝が鎌倉から供奉し同寺にかくまったとしてある。
遺児らは永享一二年(一四四〇)三月四日、木所城(1)(岩瀬町木植)に旗あげし、同一三日、小栗城(真壁郡協和町)、同一八日、伊佐城に転じ来たので伊佐氏は結城氏に遺児らの迎立を勧説した。結城氏では永享一二年(一四三〇)五月、基光没し弟の小山泰朝の子氏朝を迎えた。氏朝は嫡男持朝に命じて遺児らを擁し迎えさせた(永寿王はあとから送りこまれたという説がある)。氏朝は四家老に擁立のことをはかったが反対された。そのうち水谷伊勢守のみは氏朝を助けることになった。籠城には、氏朝の二子二弟、同族の山川三郎、武井二郎あり、外に小山、宇都宮、里見、簗田、芹沢、龍ケ崎氏らが参じた。野田右馬助・矢部大炊助等は古河城に拠っている。