北総兵の結城参戦

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相馬氏は千葉氏が攻囲方にまわったが態度不明である。豊田氏も小田氏が攻城側になったのだが去就不明である。併し小田氏の同族筑波氏は結城方である。
 豊田郡では尾崎城主秋庭氏、古間木城主渡辺氏らが結城方である。渡辺縫殿之助行重らは猿島勢と共に磐(繁)昌塚(2)より金ケ沢(金くぼ)までの守備をしている。この時、渡辺氏が愛用した鏈帷子(くさりかたびら)や籠手(こて)があるが当時の物具を示している。
 猿島勢には諸川城主甘露寺信濃守、大輪田(三和町新和田)の小谷野高安、大歩(境町)の石山則方、同長持、境の伊豆元吉、逆井(猿島町)の逆井氏があり、外に染谷氏がある。染谷氏は敗残後、板橋(筑波郡)に遁れ、足利成氏が公方になると弓田(岩井町)城主に移っている。逆井氏は逆井城に帰住し、忍田氏は山村(猿島町)に帰農している。
 合戦は九か月に及んだ。水谷氏、多賀谷氏などは善戦している。この長期戦に郷土軍がよく堪えたことは誉れでもある。管領上杉清方が百姓に迷惑をかけまいとした態度からでもある。
 結城氏の家老で城方に同調していた長沼秀宗は、やがて京側(将軍)に寝返って、仙波氏に左の申条を送っている。
 
   長沼申事、数万騎の多勢で攻めたならば、外城は落ちると思う。今までも身命を尽くし、将軍家の御旗
   を向けて、桃井、岩松らが馳せて七十日間攻め、城兵数百人は討殺しているが、要害の上に大城である
   からまだ数千人が楯籠っている。併し兵糧が用意されてないから、それに乗じ早々攻める事が大切であ
   る。此方が万一城から攻められれば、城兵は強くなる。自分(長沼)は城の案内を知っている。攻撃の日
   を延ばしたならば、其内に計略をたてられる。山川氏らは降ることを申し談じている。若、相違すれば
   一攻に兵を指向ける時宜を計るのがよろしく存ずる(3)
 
 この永享一二年(一四四〇)一一月一五日の申條を仙波氏が伊勢貞国に披露したのであるが、結城城内の兵糧は不足であるとあるが、「結城戦記」には豊富だとある。なお山川氏義が、千葉胤直の謀略と自らも結城氏全滅をさける意図もあることとて降参するつもりでいることも文意に含んでいる。
 嘉吉元年(一四四一)四月一六日辰刻(午前八時)総攻撃となり、城楼には放火あって、氏朝は自刃を決意し使者を清方に遺して婦女子の助命を請うて許された。ここに遺児らを女装させて乗輿させ裏門より遁れさせたが途に捕われた。氏朝は自刃し、安王、春王らは京に送られる途、美濃国垂井で殺された。
 戦死者には筑波法眼玄朝、筑波伊勢守、法眼息千寿丸、山川三郎(結城氏一族)、尾崎城の秋庭三郎(北条駿河守に首をとらる)、梶原大和守(武田刑部大輔に首をとらる)、山田城(三和)の山田下野守、諸川城(三和)の甘露寺信濃守、結城七郎(武田刑部に首をとらる)、簗田出羽守(同上)野木明神神官等がある。戦敗の各将は四散したが、生き残った遺児永寿王丸が鎌倉公方となるに及んで旧城に呼び戻されている。これは後記することにする。
 勝者側の戦功者には、将軍義教から御内書を下されている。
 
   結城館の事、既時攻落し、自身并に息両人、親類被官人数輩、疵を被り、敵数多討ち捕るの条、尤、感
   思召[食]され候、仍て太刀一腰遣わし候也
     (嘉吉元年)五月廿六日
     小田讃岐守とのへ
 
 右のように一族の筑波氏は結城方なるに小田氏は攻囲側である。
 康正元年(一四五五)二月、鎌倉公方として復帰した足利成氏(しげうじ)に、筑波潤朝が亡父玄朝及び一族の戦功を左のように注進している(『結城市史』所収文書)。
 
   筑波太夫潤朝謹んで申す、亡父法眼玄朝并に親類等軍忠の次第の事…前略…
   一(永享十二年三月四日より四月十八日の経過略)…
   一九月六日、伊勢守持重、叔父熊野別当朝範、又上意を以て城中へ罷り帰る、同十月五日、玉岡に於て
    京勢と合戦仕り兄千寿(手)丸疵を被る。
   一嘉吉元年正月一日、兄千寿丸城の丑寅(東北)に於て合戦致し、三ケ所疵を被る、其日御感何(いづれ)
    も抜群たりと雖(いえども)城中に於て余命を共に失うの間、所持に及ばざる者也 惣じて城中に於て
    数ケ度の合戦を始とし、玄朝親類家人ら疵を被る事数を知らず
 
 以上のような四散した各将からも成氏の許に注進があり、戦功者には感状や旧領安堵、旧城復帰があった。豊田郡では秋庭氏や渡辺氏、猿島郡では児谷野氏、逆井氏、染谷氏等である。くわしくは後述する。