足利成氏と上杉氏

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安王丸と春王丸は京に送られる途中、前記のように殺されたが末子の永寿王丸は京都の土岐持益(もちます)邸に預けられていた。宝徳元年(一四四九)正月、将軍より鎌倉公方たることを許され、九月九日、鎌倉に帰った。
 これより先、憲実は末子を隠して二子と共に失跡したが、伊豆にてみつけ出された。末子は憲忠と名乗り、長尾景仲と扇谷顕家の家老太田資清がこれを共に輔けた。これをみて関宿の簗田持助は反上杉党を集めた。多賀谷氏家は、結城落城の際、結城の幼主を佐竹氏の許に避難させたが、宝徳三年(一四五一)結城に連れ帰った。この幼主が成朝である。佐竹家では憲実の養子になっていた義憲の庶子憲定は鎌倉から逃げ帰ったが兄義俊と争って内訌をおこしている。
 両上杉家の長尾、太田の両家老は、公方と管領間の不穏の形勢をみて先手を打ち、宝徳二年(一四五〇)四月鎌倉を襲ったが、成氏に江之島に遁げられた。管領憲忠は関知しなかったのだが、いったん身をかくしている。しかし十月には山内邸に戻った。成氏は同年末ごろ、勢力を盛りかえし両上杉家の両家老を打ち破り、憲忠の首を結城氏の家臣、多賀谷氏家にあげさせた。
 小田朝久は山内邸を焼き払った。かくて公方党と上杉党の争は激化するのであった。
 将軍義政が公方成氏を討つことになった次第は、武州河越の扇谷持朝と成氏が互いに相手の非をあげ将軍に訴えたが、非が成氏にあったからである。上州白井の山内家では憲忠の弟房顕を山内家の後継としている。
 
  
  (1) 『結城市史』では下野国芳賀郡茂木城とある
  (2) 石下町古間木渡辺家文書・児谷野家文書
  (3) 「結城戦場高名着到」『結城市史原始古代中世編』所収