古河公方と堀越公方

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康正元年(一四五五)正月五日、成氏は武州府中の高安寺に陣し、同二一日、上杉方は分陪(ぶばい)河原にて対戦したが敗北して、扇谷顕房は二四日、由井にて自害した。しかし上杉軍は三月には、常陸小栗城に籠ったので成氏は結城に出張し、簗田、小山、小田、筑波の諸将に討たせ、五月一日には自らも攻めて小栗城を陥落した。なお、成氏は兵を下野に進めている。
 ここにおいて、将軍の命をうけて駿河の守護今川範忠は、康正元年六月一六日、進んで鎌倉を焼土と化し、頼朝以来二七〇年間の諸家の居宅、寺社の建築を亡ぼした。成氏は府中まで来たが救えないで下河辺荘に退き、鴻巣(こうのす)城に入り、同年七月には京方の宇都宮等綱を討ち降した。簗田持助や野田右馬介はもっぱら古河公方成氏を補佐することになった。
 将軍は、渋川義鏡や上杉党の請を容れて、弟政知を関東に遣わした。鎌倉は荒廃していたので伊豆堀越にとどまった。これを堀越公方といった。これをみて、文明三年(一四七一)三月、成氏は三島(伊豆)に進み自らは勝ったが、部将の小山、結城らが破れたので古河に敗退し、六月二四日には長尾昌賢(昌信又は景信)に古河を攻略され、成氏は土呂賦(三和町尾崎)にて援けに来た多賀谷勢に会ったが、ともに下妻に引きあげた。同三年九月一七日には、腹臣結城氏広も遂に将軍義政に服し恩賞をうけている。戦国の世の豪族らが去就常でないことはここにもみえる。この氏広は、文明一三年(一四八一)三月二九日、齢三一歳で没した。