太田道灌の築城

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文明五年(一四七三)六月、景信没し、管領顕定が、その弟忠景を執事にしたので、景信の子景春との内訌となり山内家は不運をたどった。同年一一月、扇谷政真が成氏に滅ぼされると、太田道灌は、政真の叔父定政(正)に扇谷家をつがせた。
 同一〇年(一四七八)正月、景春が鉢形城(花園城)を棄てると、同七月二六日、道灌は、主君定政を河越からそこに移している。
 上杉党を統率する人物は道灌を措いて他になく、古河公方に対して河越、江戸、岩槻の三城を築き、ほかに国府台(下総)に砦を築いて千葉氏を押え、一方、山内家の旗下をも抱え入れた。
 この抑圧をみて成氏は将軍に請うて文明一一年(一四七九)一一月、都鄙(京都と古河)の和を結んだ。不安を感じた顕定は定政を欺いて、文明一八年(一四八六)七月二六日、道灌を臣下に命じて殺させた。道灌は当家滅亡と叫んで絶命している。