多賀谷氏の出現

270 ~ 270 / 517ページ
文明一三年(一四八一)三月、結城氏広没し、五歳の政朝が継いだが、多賀谷高経(詳賀)の孫和泉守は家老となって横暴であった。高経の第二子の家植は古河公方の陪臣でありながら領地経略の了解を公方から得て大掾の一族豊田氏の豊田郡の領地を蚕食し始めた。
 文明一四年(一四八二)行田(なめた)城(下妻市総上)の常楽氏や下栗城を降し、筑波郡にも兵を入れ吉沼城の原外記父子を滅ぼした。これをみて、豊田郡の袋畑右京・袋弾正・唐崎修理・長萱大炊助・伊古立掃部・小河又五郎らは風になびくように降った。これ豊田氏の一歩後退ばかりでなく多賀谷氏はこれら郷士を率いて、水海道方面に出陣してくるのである。さらに多賀谷氏は結城氏に対し独立しようとし、常陸にても江戸氏が佐竹氏から独立しようとする傾向があった。これ下剋上の世相のあらわれである。