明応六年(一四九七)九月、足利政氏が第二代古河公方を継ぐと、敵であった上杉(山内)顕定と和したが諸将を統制する力は父ほどはなかった。
同八年(一四九九)結城政朝は、多賀谷家植とはかって、専横な家老多賀谷和泉を誅し、結城氏を中興している。
永正元年(一五〇三)九月、上杉(扇谷)朝良は山内党に対抗するために北条宗瑞(早雲)に援兵を請うて山内党と戦って一勝一敗している。
佐竹氏は一族山入氏と五代一〇〇余年間も抗争し最後の一五年間は、太田城(常陸太田)まで乗っ取られていたが永正二年(一五〇四)義舜が回復し、山入氏を滅ぼし、旧領、特に久慈郡の砂金の産地を取り戻し、富強となり、中興の実績をあげた。
多賀谷家植は永正一三年(一五一六)若城の赤松氏を討ち尾崎城の秋葉大膳を降した。「多賀谷旧記」によれば、さらに南進しているようにあるが、これは地理的にも年次的から見ても当たっていない。
古河公方家では永正元年(一五〇三)政氏は二〇歳になる子高氏(高基と改)に国務を執らせたが、重要なことは自らも携わったので命令もまま二途に出て、しだいに父子間は不和となった。同三年(一五〇五)四月には三代公方高基が古河から追放されて関宿に移り、さらに、宇都宮成綱に寄った。そして、宇都宮弥三郎秀友の女(瑞雲院)を娶った。同六年高基は古河に戻ったので、父政氏は同九年小山氏のもとに逃げている。