多賀谷氏の台頭

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世は戦国時代となり群雄割拠し、守護は守護大名になり、また、地頭のうちには戦国大名に成長するものがあり、豪族間も領土の拡張百姓の確保懐柔に、外交上は遠交近攻、武力にて弱肉強食、女性を犠牲にして政略結婚など秘術を尽くし、下剋上、近親相剋、昨日の友も今日は敵となる浅ましい世相となるのである。
 鴻巣城に拠った成氏は、二年後の康正元年(一四五五)かつて下河辺氏の築いた城に移っている。
 公方成氏のために功のあった多賀谷氏は、もと武州崎西(きさい)の多賀谷郷に住し金子氏を称したが、多賀谷郷の領主となった結城直光の家臣となり、政朝に至って実子なく結城満広の弟小山泰朝の子光義を養子に迎え結城に移った。
 光義は長男と共に結城合戦に死し、次子の氏家は結城氏の幼主を奉じ結城に帰って下妻庄、関郡の一部を給せられた。康正元年には多賀谷氏を称し関城に拠り、寛正二年(一四六一)下妻城を築き、弟高経の子家植を養子とした。高経(祥賀)は翌年一二月二九日、雪合戦に託して主の成朝を殺している。こうした下剋上の行為を多賀谷氏は、この後も露骨にやっている。
 

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