公方晴氏が徒(いたず)らに門地を誇るだけで実力がないのに対し、小弓義明の新興の勢力がますます盛んなのを晴氏が恐れたことは前記したとおりである。晴氏は応援を、後北條氏に請うに及んだところ老巧なる氏綱は、子氏康と共に、公方の名において兵を発し、天文七年(一五六四)一〇月、小田原より江戸城まで、わずかに、一日か一日半で着陣した。ここに、義明は房総の兵を集め、里見義堯を副将として、国府台に出て、わざわざ敵勢に大日川(大井川)を渡らせてから戦ったので敗戦し、義明は奮闘中、射倒され、里見は漸く遁れ帰った。実はこの主戦場は相模台であったという。かくて後北條氏はますます強大になったのである。
天文八年(一五三九)五月、晴氏は結城氏、小山氏らが命を奉じなくなったのをみて、再び後北條氏に援を求むることにした。後北條氏が、この機会にのぞんでまずとったのは、結婚政策である。晴氏が既に、簗田氏の女を娶って二子あるのに、氏綱の女をいれて家格を高くすることにあった。天文九年(一五四〇)一一月、婚儀が結ばれた。これより後北條氏の声望は名実共に具って揚がった。
結城、小山兄弟と宇都宮氏との不和は続いたが、下館城主水谷正村がよく宇都宮勢を押えていた。結城政朝は天文一四年(一五四五)七月老いて没するに臨んで、子の政勝、高朝に、「我死なば、宇都宮勢が侵入するだろうから喪に服さないでよいから、敵の首を墓に捧げよ、それが供養である」と遺言した。
八月、果たして宇都宮勢の進撃の動きがみえたので、これを討ち遺言のとおりにした。水谷正村は、戦後、下館城を弟に譲って下野の久下田に築城して、さらに宇都宮勢を破り勇名を轟かせ蟠龍斎と号している。
水海道軍勢の出陣図