河越の戦い

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天文一〇年(一五四一)北條氏綱没し、文武両道の名将、氏康がその跡を継いだ。氏康は民政に力を入れ、富強を目的とし、文化事業にも尽力した。他方、管領上杉憲政は、同一一年(一五四二)六月、常陸の鹿島神宮に、藤原氏が司祭する鹿島の神に同藤原の子孫である憲政が、自家の復興と後北條氏の調伏を祈願している。そして、駿河の今川義元に同盟を求めたので、今川勢はこれに応じて小田原領内に攻めこんだ。これに対し氏康が出陣したのに乗じ、憲政と扇ケ谷朝定は豆相を除く関東の兵八万を以って河越城を包囲したが北條綱成は三〇〇〇の城兵にて死守し、屈しなかった。
 憲政は四代公方晴氏を味方にしようと誘った。氏康も使者を古河に遣し、しきりに中立を請うた。憲政はさらに難波田弾正に、公方と管領の公の関係は、公方と後北條氏との親類関係より深く重い次第を説かせ、遂に晴氏に一〇月二七日、出陣を決心させた。氏康は直に今川義元と和して、天文一五年(一五四六)になって兵を廻らせ、まず綱成の弟勝広に敵陣を突破させて救援する旨を通じた。
 氏康は八〇〇〇の兵を河越城の南方砂窪に陣取らせて、小田政治の陣代菅谷政貞にたのみ晴氏に和を請うたが、笑殺されてしまった。次に憲政にも和を申し込んだが黙殺拒絶された。実は弱いふりをして包囲軍をたぶらかしたのである。そして四月二〇日深夜、夜襲をかけた。敵軍は狼狽、めもあてられず四散した。綱氏も晴氏の軍陣に攻めこみ潰走させた。小田、佐竹、多賀谷、簗田、相馬氏等の公方側の援軍も崩れた。多賀谷氏には岡田郡の北方の郷士、相馬氏には水海道絹西地区の郷士が従軍しているだろう。古河公方の侍、福田治部知之は古河へ敗走の途、戦死している(古河福田家文書)。
 氏康が公方晴氏を問責したのは当然である。憲政は上州白井城に走っていたが、天文二〇年(一五五一)五月、氏康に攻められ越後の長尾景虎の許に走って頼った。ここに関東の管領家の有力者は、岩槻城の太田資正(三楽斎)を残すだけとなった。
 長尾為景は天文一一年(一五四二)陣没し、子景虎(輝虎、謙信)は同一八年(一五四九)兄の譲りをうけ、同二〇年(一五五一)には憲政を迎え、関東管領職を譲られ、同二二年(一五五三)には上京して将軍足利義輝より、関東の支配経営を委託され、後北條氏と争覇するに至った。
 武田晴信は天文一一年(一五四二)父信虎が今川義元の許に追って隠遁させてから甲斐を領し信濃の諏訪氏を滅ぼし、村上氏を景虎の許に追って川中島一帯を奪取している。
 以上、後北條氏に拮抗する武将に越後の上杉景虎(謙信)甲斐の武田晴信(信玄)等あらわれたが、北総の相馬氏などは後北條氏の威力を知り天文一八年(一五四九)以来味方している。これは、水海道南部絹西の郷士も同調し行動を共にすることを意味する。同二二年(一五五三)結城氏も同じく後北條氏に味方することになった。