佐竹氏の束縛から脱しようとする馬場城の江戸氏は、佐竹氏と争うことになった。
天文一四年(一五四五)佐竹氏が小田氏と通謀すると、江戸氏はこれに備え戦ったが破られている。同二二年(一五五三)六月に至って漸く和平をもたらした。
小田政治は、大掾慶幹が、小田氏の幕下の小川城主園田氏を後援するをみて慶幹を悪(にく)み天文一五年(一五四六)五〇〇騎を以って府中を攻めたが伏兵に背後を突かれて破れた。天文一七年(一五四八)二月、政治没し、子氏治が一八歳にて継いだ。
小田氏の後援の真壁城主真壁氏幹は武勇衆に勝れ筋鉄入りの丈余の樫棒を揮って人馬を仆し夜叉のように振舞った。結城の部将水谷兄弟も武勇絶倫であったので意気投合したもののようで、共に小田、下妻に打撃を加えようとした。この形勢に多賀谷氏は結城政勝に恭順の意を告げた。天文二〇年(一五五一)多賀谷家重没し、重政が継いで下妻城主となった。
天文二三年、小山小四郎朝政は、古河公方が衰えたのに乗じ、その足もとを侵そうとし、宇都宮弥三郎秀友の同意を得て、間々田監物を降し、野木・赤塚・佐川野を経て上大野(総和町)に出て稲宮八郎左衛門を降し、柳橋城を攻めると、柳橋豊前守は仁連・諸川・久能・駒羽根・下大野・葛生・矢(谷)貝・磯部・山田等の諸村数百の兵と籠城したが、柳橋一族・岩室兵庫・葛生吉弥・山田城主大蔵・中村能登・鈴木隼人・谷貝の初見釆女・染谷掃部・秋山・森(駒跿)・間(真)中(上出島)・長野(百戸)等三〇〇余は城から出撃して小山勢を龍蔵院の切通しに落とし討った。五日間の攻防に城中には兵糧が尽き、豊前一族は城主夫人の弟苅間城(谷田部)の野中瀬左衛門(小田一族)を頼って逃れ、今の柳橋(谷田部町)の地を開いた。時は経て三五年後の天正一七年一一月中旬、奥州に身を潜めていた小田氏治が帰郷し、野中瀬・柳橋の許に頼ると共に、菅谷左衛門の手子丸城に入ったので、太田三楽は一驚し、天正一八年(一五九〇)正月、子の太田兄弟を遣し攻めた。このとき柳橋豊前は六〇余の老体であるが一番鑓を合わせて善戦し退けている。