公方晴氏は己の力をかえりみず、天文二三年(一五五四)里見義堯を通じて長尾(上杉)景虎(謙信)に合力を求め、その快諾を得たが、後北條氏に察知された。氏康は同年一〇月四日、部将松田頼方に古河城を襲わせ、一色氏や簗田らを破り、時氏・藤氏(ふじうじ)(母は簗田氏)らを捕え、相模波多野に幽閉し、梅王丸(義氏をいう・母は北條氏)を公方とし小田原にさらに鎌倉の葛西に置いた。
結城政勝は公方に忠実でまた、氏康にも親交を続けていた。弘治元年(一五五五)春、伊勢参宮の帰途、小田原にて、温泉療養中の大掾慶幹と会い共に氏康を訪ねて、小田氏領侵略の謀議をしたのであった。このころ小田氏は信田氏を滅ぼしたが自らも勢力を失っていた。それは次の失策による。天文二三年(一五五四)小田氏治は土浦城主菅谷政貞の奸策を入れて、八月十五夜の月見の宴に託し、木田余(きたまり)城主信太(田)範宗を殺し城を奪ってしまったのであった。天下の覇権をねらい源頼朝に抗した信田(志田先生)義広の後裔は遂に滅んだのであった。
弘治元年(一五五五)波多野の藤氏が、景虎に救いを求めたので、同年五月景虎は氏康を廐橋城(前橋)に攻めた。しかし七月には武田晴信と戦うために川中島に兵を廻らせてしまった。
弘治三年(一五五七)三月、鎌倉の葛西館にて梅王丸は元服して義氏と名乗った。父晴氏は古河に還ることになり、小山高朝は歓び迎えたうえ、守谷城主相馬治胤を誘って、古河城の御普請に努め専ら晴氏の古河における勢の復興を図ったが、それは無理なことでできなかった。七月になると小田氏治が大掾氏の府中領を侵すようになったので、義氏は氏治の侵略を中止させようとしたが及ばなかった。
氏康は義氏を関宿に移すために、永禄元年(一五五八)四月、簗田晴助を古河に、同年六月、晴氏を古河から鎌倉に移した。同二年(一五五九)二月、義氏は葛西から関宿に入城した。この間、藤氏父子に誘われて上杉景虎は上野に出陣している。