結城政勝が大掾氏と共に氏康に小田領侵略の企を謀ったことは前記した。これを決行したのは弘治二年(一五五六)二月下旬で、同三月には氏康も五〇〇騎を援けに出し、太田資正(三楽斎)も加わり、公方義氏は簗田・一色・野田左衛門大夫ら三〇〇〇余騎にて政勝を援けさせた。
結城勢の中には属将多賀谷政経があり、その部下に、花島(水海道)の石塚左京家の分流、五家(水海道)の石塚彦三郎将監が存した。同年四月五日、小田氏の属城海老島城(真壁郡大村)を攻めた。氏治は援軍を出したが救うことができなく、広大な城域は三重の土塁濠堀を廻らしていたが落ち、氏治も敗走し、小田城に入る暇もなく菅谷氏の土浦城に遁れた。この時、海老島城には平塚山城守自省(3)が拠していた。この戦は、次の充行状や官途状によって実証される(「秋田藩採集文書」)。
不断之奉公神妙之間いさこつかの内拾貫文之所 充行候 謹言
弘治二丙辰六月六日 政経(花押)
石塚彦三郎殿
これは戦功によって、石下の砂子塚のうち拾貫文の地を与えられた充行状である。
此度海老嶋の一戦に於て走廻り候条 神妙候間官途其意を得候 謹書
弘治二丙辰六月六日 政経(花押)
石塚 将監殿
これは彦三郎に将監という官名を希望により与えたものであるが、その後、武勲によって石塚氏は山城守なる名国司も得ている。
永禄二年(一五五九)八月一日、結城政勝没し、名跡を継いだ子の明晴が病んだのに乗じて、小田氏治は弘治二年の戦敗に報復しようとして、永禄二年九月六日、飯塚・岡見・只越氏らを率いて結城を襲った。結城では部将らが馳せ付けて小田勢を撃退することができた。
永禄二年末ごろ、結城晴朝は、義氏を護るために関宿に詰めていた。時に多賀谷政経は、晴朝の留守をねらって結城城を襲おうとし佐竹、宇都宮、小田らと同盟し兵を進めて来た。よって晴朝は永禄三年正月、関宿を引きあげ、途中柳橋で待ち伏せしていた簗田晴助方の軍を破って帰城した。この戦は一見、同士戦のようであるが、実は義氏党と藤氏党の戦いでもあった。また父高朝が結城攻めの側にまわっているなど不思議である。晴朝は自ら寺院など破却して敵を待った。正月七日、激戦を交えたが和が成り、結城属城四か所を譲った。海老島城もその一つで宍戸外記に譲ることになった。その後、宍戸氏は石下次郎政重と組んで下妻方面に兵を出したが敗れている。さて正月八日、明晴が病没したので小山高朝の次男晴朝が結城家を継いだ。小田氏に報復のため海老島城を攻め落とした。城主はよく替わったが、この時は平塚自省長信であった。平塚氏はその後になってからもながらえている。
赤松安太夫は功により、古沢村を与えられ今後古沢氏を名乗るようにといわれている。
永禄九年(一五六六)八月二三日、多賀谷重政没して、政経が継いだが、これに乗じて、宍戸入道は、翌一〇年(一五六七)春、真壁安芸守氏幹と共に下妻を侵そうとし、高道祖まで進んだが、また敗走している。後に高道祖は白井全洞(善通)に与えられ、白井は、ここに石浜氏を置いている。
永禄一二年(一五六九)三月七日、上州白井城の長老憲景から上杉景虎(謙信)、宛書状に、謙信に海老島戦や小田の形勢、関宿の危機を述べている。
「前略…正月十五日 海老嶋へ陣を進め十七日午の頃、廻りを落してしまった処、頻々に平塚刑部大輔
が赦免を願い、証人として 親類家臣や実子まで質に出すとの事故 許してやった。廿一日は小田在へ
陣を移して廿二日、小田氏治は在城のほか不動山へも上り防備している。こちらに拠る陣かないので、
真壁安芸守氏幹、太田美濃守父子(資正・政景)多賀谷修理重経らも(上杉謙信)越山の日もわからない以
上、帰陣したいとの事なので其の意に任せた。不動山にも敵が在るので、こちらも動けなく、関宿に自
落のほかないから越山下され度く願上げる」
とある。関宿は当時、北條氏照に攻められている。