元亀三年(一五七二)八月、北條氏政が下妻に迫ったので、政経は古沢(豊加美村)に迎え打って勝った。そこへ佐竹義重が来援したが、家臣の茂木上総介は小田原方の伏兵にあって敗退した。しかし、下妻への援軍がみえたので氏政は退却した。
同年一二月晦日、小田氏治が忘年会に鯨飲中のところ、この例事を察して、太田資正、真壁氏幹らは夜陰に乗じ襲って氏治を藤沢に追い小田城を奪った。氏治は奪回しようと、翌天正元年(一五七三)二月、大雪の日に急襲して目的を達した。太田、真壁らも残念とし機会を待っていたが、同年四月、多賀谷方の白井全洞と協力して小田城を攻めとって、柿岡から梶原政景を移している。小田城の争奪はまるで競技の勝負そのものであった。
城を失った氏治父子は木田余(きたまり)城に遁れた。同年七月には義重は、この城の氏治を攻めようとまず出島の宍倉城主菅谷貞次を降している。
天正元年四月一一日、真壁・梶原・北條出雲(北條城主)の諸将らが藤沢城を攻め取ろうとするところ、藤沢勢の援軍に由良判官憲綱があった。北條出雲が子、美男の北條犬五郎一七歳を田土部河原に討って露と消えさせた。さらに由良は小田守治らと共に強敵を小田城に追い込んでいる。やがて小田氏は多賀谷政経が豊田領を押領しようとしているのを見て、豊田氏の請わるるに応じて援軍を出した。政経は、子の犬次郎(重経)や諸部将の三〇〇余騎を率いて小貝川辺に向かった。小田からの援軍は野中瀬・沼尻又五郎らの三〇〇余騎で金村台に陣した。下妻方は塚田三郎左衛門が先陣で小貝川西岸に着し続いて渡河して戦った。
豊田治親は飯見大膳・気比彦三郎らの一五〇騎に横から突かせたが、下妻方の塚田兵庫・菊池勘解由・中茎佐内らの新手の一五〇騎におじけて動揺した。このとき下妻援軍を沼尻又五郎一六歳は八〇斤二間柄の鉄鎗で崩した。また野中瀬は追い立てた。多賀谷犬次郎は、退くを知るも武士であるといって笑いながら退いた。