多賀谷重政が、豊田氏幕下の袋畑、その他を服し、さらに吉沼の原外記を滅ぼしたことは既にのべた。
豊田治親は、永禄元年(一五五八)五月に下妻勢が、また、豊田を窺っているので、飯見大膳らにはかり、防衛に小田の加勢を請うことになった。吉原・新井・小口・高橋・畑・増田・荒川らは城に籠り、小田よりは菅谷左衛門・沼尻又五郎(家忠)戸崎ら九〇〇余が来援した。重政は次男淡路守経伯(つねのり)に長峰原に陣どらせた。これに対し沼尻は伏兵となり、戸崎は野原に火をかける。菅谷は偽って逃げることにした。
経伯は菅谷を追ったが不審に思い引き上げた。その途中に沼尻の伏兵が襲いかかり、菅谷は反撃に出て、戸崎が野火をかけたので、下妻勢は周章敗走した。豊田城では、戦功のあった沼尻や菅谷らが厚く賞された。
下妻方は残念でたまらないので、再び蛇沼(山田沼)に出陣した。経伯が大将、染谷三河が副将となって、二二人の侍将を加え豊田城に向かった。飯見は城に拠って守備しようとしたが斥けられて沼尻の攻撃策を採り一一侍将が出発して蛇沼に着いた。満水である。沼尻は物ともせず先陣し馬を乗り入れたので全軍続き乱戦となった。又五郎が鉄疣打った丈三尺の樫棒で敵を打ち倒したので諸侍は束になってかかったが負かされた。下妻方は逃亡した。
豊田四郎は大いに喜んで、沼尻に、
今度貴殿於二蛇沼一無二比類一相働 神妙之至 已後弥々可レ抽二忠節一
との感状と名刀名馬を与えている。
今度豊田於二袋畑一無二比類一相働 神妙之至
已後弥々可レ抽二忠節一 豊田四郎
沼尻又五郎殿
この第二の感状をみると、小田の加勢は豊田の袋畑まで攻め進んだわけである。
多賀谷氏は一応、豊田氏と和したが連敗を遺憾として、策士白井全洞の計略に委せることにした。ただしこれは後年になって天正三年に実現する。