豊田氏滅亡

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白井は金村雷神に百日の参詣を企て、飯見に逢う機会をつかんだ。うわべには、あくまで誼を求める装いをした。大膳宅に招かれるようになると、その娘を嫁にほしいと申し込んで叶った。大膳を魅するに至って密談に入った。当家と多賀谷家が争うとどちらが滅ぶかと、大膳は豊田であるという。ではとって替って豊田城主になってはとすすめた。飯見は慾に迷って主を殺そうとしたのである。天正三年(一五七五)九月、月見の宴を機としたが、石毛(下)次郎(治親の弟)が頓死したのでやめた。一〇月下旬、大膳宅で宴はひらかれた。治親の奥方は悪夢を見たからと案じている。治親は招かれて毒酒をもられ遂に絶命した。白井はかかってきた豊田家人らを破り帰ると、政経の命をうけて石毛に向かった。石下では新井三河指揮の下に、同和泉・山口左馬介・松崎主水・増田大学・斎藤織部・大類らが籠城しようとし、吉原備前・荒川内膳・小林若狭・木村豊後・山田・間宮・高橋・中川らは出撃した。古沢(赤松)隼人は新井の肩を射、堀越右馬介を投げとばしている。白井は退いて多賀谷淡路の援を待ち数日合戦に及んだ。寄せ手の山口が吉原に降伏を勧めると、斎藤・堀越は賛成し、増田・小口・新井らは主戦を唱えた。山田・荒川・間宮は大膳を引き取る条件附の和を唱えた。この案に衆議一決した。政経も飯見大膳を不臣不義の男として引き渡したので豊田、石毛の家人らは飯見を鋸引にし、その一族の首も刎ねた。
 石毛東弘寺忠円(次郎の弟)は始め降参者に対し怒ったが、治親の子太郎正家七歳を取り立てることにおさまり、政経は東弘寺へ寺領一〇〇石を寄進し大房に移築させることにした。こうして豊田郡を得た政経は、ついで小田領を侵し大曽根・若森・蔵持(大村倉持)・海老島を略して、白井を若森城主として、さらに小田・北條を攻めさせた。また、谷田部城主岡見主殿頼治を追って、弟経伯を置いている。