菅谷氏、土浦城謀略

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天正元年(一五七三)、小田氏治(天庵)は小田城を乗っ取られ藤沢に退いた。土浦城に引き籠った信田(しだ)重成は祖先信田先生(せんじょう)義広の誇りを棄てなかったが、菅谷は氏治を土浦城主とするために謀略をたてて信田を滅ぼすようになった。戦国の世の常ながら友を殺す無情をなしたのである。同年八月一四日、菅谷から信田に、明一五日夜、月見の宴にこと寄せて密談したいと申し込んだ。信田は若党少しを連れて出ようとした。奥方は凶夢をみたから止めてくれと頼んだがきかれなかった。会場は手野郷の中根主膳宅である。酒色のもてなしのうえ斬殺したのであった。菅谷は沼尻に五〇〇の兵で土浦城にせまらせたが城兵は戦わないで四散したので入城した。この間、真壁・北條(北條城主)氏らは藤沢を囲んでいたが、長陣となり油断をしたので、小田守治(氏治の子)に夜討ちされ、物具を着けるいとまもなく、兵は赤裸のまま小田に逃げ帰っている。