北総勢と後北條氏の対立

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天正元年(一五七三)五月二一日、北條氏照(輝)、同氏堯の両大将は小田原を立った。常総をねらったのである。忍城主成田長氏・皆川山城守広照・大道寺駿河守政繁らを先陣とし、その外に武州の江戸、八王子、中山らと、上州の本庄松井田・倉賀野等三万余の軍勢で下総に寄せて来て、同二年春まで半年にわたる長期対戦が始まった。先陣の兵は下総の白井城を一日で落としたが原式部の柑子(こうす)城(公津城)は千葉勢の援に支えられて落とせなかったので小金まで退却した。
 氏照兄弟も小金に着した。これに対し布佐城に居合わせた布川の豊島半之允、芝原の河村山城らが我孫子を経て、さらに取手・布施の兵を合わせ手賀沼入江に陣した。柴(芝)崎城主荒木三河も合流して小田原勢に反撃したが、豊島・河村を始め多数戦死し首をあげられている。
 ここにおいて足高の岡見伝喜・龍ケ崎の土岐大膳・江戸崎の土岐伊予守、板橋の月岡玄蕃の連名の廻文が触れられ宗徒六八〇余人、雑兵一万五〇〇〇が集まった。時に小田氏が多賀谷に攻められることになったので、小田氏に援を乞われて踵(きびす)を廻らせたのは、岡見治部・月岡玄蕃・由良信濃守成繁・同判官憲綱・平井手伊賀らである。
 着到は、発起者と小田氏応援の右部将らを除いて列挙してみると、
 
  水海道勢田村大膳・同弾正左衛門・松信三河・富村出雲・同下野・土井喜右衛門・同喜五郎・五木田丹後・同因幡・秋場釆女・同縫殿・風見主税・同刑部
  横曽根勢黒川伊勢守・同小十郎・古谷藤四郎
  水海道絹西勢横瀬能登守・同主膳・同弾正・小磯勘太夫・山名弾正
  猿島勢染谷民部・直井修理・横張尾張・名越若狭・針谷土佐・朝比奈伊織・尾井下野・茂呂下総
  守谷勢相馬小次郎・本田(多)越中・寺田外記・吉田治左衛門・寺田弾正・海老原対馬・高井民部・同十郎・倉持内記・斉藤治部・染谷筑前・二条大内蔵・平沼治兵衛
  足高勢岡見中務・大道寺筑後・同右京・坂監物・桜井土佐・寺田佐渡・同求馬・鈴木兵内・浜野平太夫・猪瀬内蔵助・金子左馬介・軽部藤内左衛門・浅野丹後・矢口若狭・栗林左京・同治部義長
  布川勢豊島日向・同紀伊守・新井治部(元小野川城主)
  其他勢土田隼人・飯岡周防・飯塚馬之助


 
 以上である。ここに豊田勢、岡田勢がいないのは、下妻勢に攻められている小田氏を救援に赴いていたからである。豊田氏旗下の横曽根の羽生・渡辺や報恩寺氏なども出られなかった。諸石塚氏・坂野監物も同様である。この藺沼(後の利根川)を挾む大対陣は兵火を交えず、まして水海道辺は静粛であった。しかしやがて、この地帯は、小田原後北條氏の率いる南方軍と、佐竹・多賀谷の北方軍の決戦場となるのである。