関宿開城と諸将の対応

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天正二年(一五七四)五月、北條氏政は兵を下野に出して晴朝に命じ共に小山城を攻めて秀綱を降した。後北條氏は当時関宿の晴助を攻めているが、前記氏政が相馬氏に宛てた同年閏一一月の書状のように上杉謙信(景虎・輝虎)の動向を警戒している。簗田方は一か年間の長い籠城によく守って屈しなかった。この戦を機会に結城晴朝は後北條氏を離れ謙信と結ぶことになった。氏政は弟氏照を栗橋城に遣わして、公方義氏のために簗田を除こうと、天正二年閏一一月、栗橋城に大軍を集めた。これより先、永禄一二年(一五六九)七月一日、この城に再度拠っていた野田氏を鴻巣城(古河鴻巣)に移し前衛砦を東昌寺境内に築いての攻撃である。
 関宿を援くるために佐竹義重は、上杉・宇都宮にも加勢を求め多賀谷政経を伴って小山城に会談した。しかし世情の静謐のためと称し晴助にすすめて開城させた。そこで憤慨した謙信は古河・幸手を経て、岩槻・菖蒲・騎西・羽生城まで破壊して引き揚げている。
 公方義氏は南図書頭(みなみとしょのかみ)、由良信濃守成繁(金山城主)らに、経過を報告している(1)
 
   内々、お使で仰せられるかと思っていたところ、代官にて親切に言上されうれしい事である。先頃は古
   河が心配であるとのお話、感悦である。そも/\今度氏政が関宿を攻むるに当って、輝虎や義重らが関
   宿の後詰されたが城中の防備が堅いので、輝虎は退散して羽生まで引あげ逃げている。その上に、佐
   竹・宇都宮が関宿開城を望まれたので静謐になり、安心出来るようになった。宜しくお察し下さい。酒
   肴など到来、お目出度い事である。  謹書
     (天正二年)閏霜月(十一月)二六日  義氏(判)
 
 関宿城を明け渡した簗田晴助父子はいったん、常陸太田の佐竹氏の許に落ちていたが、一族は天正五年(一五七五)五月ごろは、水海城(総和町水海)・磯部館(総和町磯部)や関宿城に戻っていたようで公方義氏から北條氏直が山川砦に出陣し下妻を攻めるから応援するよう要請されて出兵している。