守谷城においての募兵

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天正五年(一五七七)春、北條氏堯は相馬胤房・同大蔵、外諸将と合議して意見をまとめた。即ち、多賀谷は水海道城を本陣として下総を併呑する野望があるから討伐しようと廻文して軍勢を募った。
 着到の面々は、以後下妻勢や水海道勢に敵対して常総の各地に活動する将兵郷士である。
 当時、水海道附近の大動員は二回ある。二回とも慕兵の中心は守谷城である。
 天正元年(一五七三)五月、小田原勢が藺沼(常陸川・後の利根川)の彼方に布陣した時は、宗徒の侍六八〇余人、農兵合わせて一万五八〇〇余人、その中には水海道兵がある。同五年の二回目は小田原勢が下妻勢に対するため、守谷に集めたので宗徒六四八人、雑兵合わせて三万四〇〇〇余中に水海道絹西の主従が参加している。兵数は両度とも誇張されている。
 前記のように今回、氏堯は敵の本陣は水海道城にありとうたっている。よく戦場にあらわれた城主や宗徒の面々をあげてみる。
 次の約五〇名は第一回、小田原に対戦するための廻文と第二回、守谷からの廻文に二度とも着到した面々である。
 
   布川城主豊島紀伊守・同日向・地方将監・山崎図書・龍ヶ崎城主土岐大膳・江戸崎城主土岐伊予守・諸
   岡氏・大徳勘太夫・大野主馬玄蕃・稲見与助・佐野内膳・岡野氏・野口備前・岡見伝喜・足高城主岡見
   中務・谷田部城主同主殿(陣代鳴井)・牛久城主治部・栗原次郎(後の義長)・同左京・由良信濃(陣代小
   金井)・桜井土佐・金子(官名変る)・寺田佐渡弾正・稲見大膳・直井修理・横張尾張・朝比奈民部伊織・
   小磯勘太夫勘解田・佐藤・色川三郎兵衛弥三郎・横田加賀大膳・木村源二郎兵庫・青柳出雲図書・高谷
   大膳・横瀬弾正・唯越尾張・守谷城主相馬小二郎・本田越中・月岡玄蕃・高井十郎民部・真根山出雲和
   泉・赤根大膳・鴻巣弥太夫刑部・星野弥太夫左衛門・小川(内記から外記に変わる)
 
 以上は二度とも水海道勢とは対戦の間柄である。右のほか天正五年春の第二回目だけ水海道勢に敵対した城将・侍等をあげてみる。
 
   小金井城主高城兵庫・綿貫大学・日暮七郎・元小野崎城主荒井治部(豊島の客文)・同次郎・木田余善助・
   菅谷左衛門・中根主膳・志津久監物・戸崎大内蔵・野口豊前・篠塚十郎平・畑氏・中山平左衛門・矢作
   丹波・吉葉伊勢・平沼主計掃部・斉藤因幡藤兵衛・沼尻又次郎又三郎又四郎又五郎又十郎治兵衛・今川
   織部・片見因幡・吉田因幡兵助・飯泉伊予・唯越隼人・大沢美濃・筒戸城主相馬求馬・椎名佐渡・藤沢
   帯刀・飯塚右馬助・飯泉周防・菱沼織部・川田氏、他略
 
 着到に三人の帳付が三昼夜休息せず筆を執ったという。