栗林勢と佐竹勢の合戦

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多賀谷は福岡城攻めに佐竹氏に援兵を請うた。天正五年(一五七七)八月一五日、福岡城では月見の宴をしていた時に、天変があったので義長は兵戦に変事が起こる相であると感じた。また、水海道方面の情報を得た。そこで義長は佐竹の進軍に対策を練った。すなわち、岡見は福岡を守る。梅沢・諸岡の兵三〇〇は今鹿島に出陣、木村・寺田の二〇〇の兵は鬼ケ久保と野畑に陣取る。菅谷正光の五〇〇は島名に陣を張る。島井・和田・高谷(将監)は兵粮奉行、沼尻又五郎・石引(将監)の二〇〇余兵は萱丸に来て小荷駄隊となる。自らは多勢を率いて島名に出るとの作戦をたてた。
 

水海道への侵入軍

 同年八月一九日、佐竹義重は笠間に着した。先手の車丹波は今鹿島攻めに銃撃をうけたが勝ち、さらに鬼ケ久保の敵を島名に走らせ、今宮治部を兵糧奉行として今鹿島に籠らせた。この佐竹勢の追撃に、義長は島名に破れ真瀬に退いて烈しい鉄砲の射ち合いをしたが、義長は敵の誘導戦には乗らなかった。
 この情況を守谷方面に在陣していた高井新八郎は、飯沼城(逆井城)にあった北條氏繁に通報したとみえて氏繁より次の返信があった(『下妻市史』所収)。
 
   右佐竹衆寄来之由注進候、覚悟之前ニ候間抽而軽身命 就走迴者 望之知行可之候
   下妻衆可先勢之条 彼衆討捕候者 当日之可本意 各存其旨粉骨走廻者也
   仍如件
    天正五年丁丑九月十五日  氏繁(花押)
     高井新八郎殿
 
 この戦には相馬氏や高井氏は北條氏堯の下に下妻衆と戦っているのだが、友軍で下妻勢を背後から牽制している氏繁に緊密な連絡をとっていたとみえる。