水海道への侵入軍
同年八月一九日、佐竹義重は笠間に着した。先手の車丹波は今鹿島攻めに銃撃をうけたが勝ち、さらに鬼ケ久保の敵を島名に走らせ、今宮治部を兵糧奉行として今鹿島に籠らせた。この佐竹勢の追撃に、義長は島名に破れ真瀬に退いて烈しい鉄砲の射ち合いをしたが、義長は敵の誘導戦には乗らなかった。
この情況を守谷方面に在陣していた高井新八郎は、飯沼城(逆井城)にあった北條氏繁に通報したとみえて氏繁より次の返信があった(『下妻市史』所収)。
右佐竹衆寄来之由注進候、覚悟之前ニ候間抽而軽二身命一 就二走迴一者 望之知行可レ遣レ之候
下妻衆可レ為二先勢一之条 彼衆討捕候者 当日之可レ為二本意一 各存二其旨一懸二粉骨一可二走廻一者也
仍如件
天正五年丁丑九月十五日 氏繁(花押)
高井新八郎殿
この戦には相馬氏や高井氏は北條氏堯の下に下妻衆と戦っているのだが、友軍で下妻勢を背後から牽制している氏繁に緊密な連絡をとっていたとみえる。