多賀谷重経は佐竹勢が真瀬に先勝した際、白井全洞を先手として筒戸に出兵させた。経伯と多賀谷三経(重経の子)は水海道実城は対相馬戦には北に偏するとして、若干の守備兵を置いて支城の亀岡台報国寺を本陣とした。秋場縫殿介には吹上を守らせ、五木田・松信・土井・瀧川らを巡見警戒役とした。
天正五年八月二〇日未明、福岡勢の兵船が荒(新)井木を渡って来るのを巡見役らは見つけて五木田因幡は実城へ、瀧川宗兵衛は吹上の陣へ注進した。秋場の兵は直ちに水際で弓鉄砲を射ちかけたが、別動敵船が報国寺下に漕ぎ寄せて火をかけるのを見て防戦に堪えず諏訪明神前に引き返した。由良の兵は報国寺境内に上り本堂に放火した。三経の率いる豊田勢と石毛勢は奮戦したが破れて飯沼弘経寺方面へ退却した。報国寺に弘経寺から詰めていた。東谷の声門坊、西谷の利天坊、北谷の迎援坊らが奮闘した。声門は大館氏を、利天は上田を、迎援は山下を斬っている。
成繁の命で堀口・和田・岩松らが三人の坊に渡り合ったが、皆切り抜けて姿を消した。
岡見と月岡の兵らは天神社(水海道峰下)の経伯勢を大輪城(近世の土井家陣屋)に走らせた。二〇日の夜明けになって、義長勢は八幡宮前に漕ぎつけ秋場ら水海道と戦った。秋場は義長方の横瀬主膳・海老原治部・桜井土佐・菅谷左衛門・小島・寺田らと刃を交えている所へ富村三河・染谷・笠(風)見らが助にきて乱戦となったが勝てなかった。義長は諏訪明神に出て、福岡勢と合した。そして多賀谷淡路守経伯の落ちた大輪城へ攻め寄せようと議している。
水海道の松信隼人・土井喜三郎・秋場蔵人・五木田丹後を始め名ある剛兵が敵を待っていると、豊島氏が率いる布川城兵と布佐の兵が来襲したので城主秋場縫殿介は十文字の鎗を捻って一番に突き出して敵四人を突き落とした。二番に五木田因幡は三尺五寸の野太刀を揮って五人を斬り、松信・五木田・土井の勇士は三番に突き出でて、布川・布佐の大勢を切り崩し追い掃った。しかし戦いに疲れた水海道勢は留まることを得ず中妻方面へ落ちている。