後北條氏の北侵と佐竹氏の南下

318 ~ 318 / 517ページ
天正六年(一五七八)二月、上杉謙信没して、景虎(北條氏康の子で謙信の養子)と景勝の養子同志の相続争いとなり、翌七年四月、景勝が勝ち、景虎は命を失った。
 同年五月、氏政が山川(結城)に出陣して下妻領を圧しようとした時、古河公方義氏は関宿の簗田氏(一時、佐竹氏に寄っていた)に対して、氏政が通過するから参加するよう申し送っている。氏政は佐竹義重が壬生(みぶ)城を攻めるのを牽制しようとして山川村の粕礼を攻め落とし、五月二一日には、今宿砦を攻めとった。義重は壬生攻めを止め小川台に退き鬼怒川を隔て、備え、重経は栗山城(八千代町栗山)を固めた。先に関宿城入手後、常陸勢に備え特に栗山城に対し対立した飯沼城(逆井城)の北条氏繁が天正六年六月に病没し、壬生城も落ちたので双方引き揚げている。
 義重は間もなく天正六年七月には木田余(きたまり)城の争奪戦に勝ち勢力を拡大し、同七年(一五七九)三月は、あざむいて鹿島の諸族を営中に招いて屠腹させるなど目的のためには手段を選ばない残酷なことをしている。