後北條勢の谷田部城奪回策

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天正八年(一五八〇)北條氏邦・同氏照の兵三〇〇〇騎、牛久城主岡見治部治広と共に谷田部城を回復しようと出動した。多賀谷経伯が下妻に急報すると、子の経明が真っ先に馳けつけて来、斬り合っている。これをみた経伯は急ぎ城内に助け入れたが、勇ましくも出撃して共に戦死を遂げた。戦死の所には悲運の経伯父子の淡路塚が現存している。
 城兵は恐怖におちいったが、面井(おものい)館(高谷大膳家堀之内現存)にあった重経が切歯扼腕して来援し、南方勢を惨敗させ五〇〇余をたおした。
 野口豊前父子は手下の数人と共に勇戦して味方を助けている。
 
   下妻谷田部の城を小田原衆取つめ申候時分岡見五郎右衛門さい[采配]取にて おしよせ申候に 味方お
   くれ[負け]候て 橋をふみおとし 皆堀底へおち入申候所に 我等子に治部 ゆき[靭負] 同与力に相
   沢・北条など、申もの六七人たちこらへ 跡おい[追]出し候 皆々 助けのけさせ申候云々
 
 以上のように、谷田部城は下妻方が維持出来たが、やがて巻返しがあって次の戦がみられた。
 
   天正十一年(一五八三)九月八日に牛久より谷田部の地へ動候て 牛久の衆退け申候所に我等只壱騎跡備
   に乗かけ申候て岡見五郎右衛門に言葉をかけ申候に鉄砲五六丁にて われをねらい打申候へ共はづれ申
   候 その鉄砲の音をきゝ申候て跡にひかへ候味方共皆々乗かけ申候所に敵くづれ三百八十首をとり申候
    此時我等一人の見覚にて勝申候其日我等も首三ツ取申候 鑓傷一ケ所手負ひ申候 連合(つれあい)候
   衆飯村新左衛門 広瀬ぶせん存し申候事
 
 野口豊前は敵将岡見治部に戦の最中かけ声している。この方も名乗ったにちがいない。鉄砲の玉はあたらなかったが、その音で味方がやって来て、多数の敵首をあげている。味方も犠牲を出したこととて激戦のほどが偲ばれる。また戦功を認めて貰うには証人が必要で、その連になった人名をあげている。
 この攻防戦には水海道勢が参加している。戦終わって谷田部城は横曽根城主羽生式部大夫が下妻勢の平井手伊賀守と共に守将を仰せつかり、地蔵坂には渡辺越前が置かれている。