水海道勢の板橋城急襲

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氏治が小田城を落として後、領内、特に西南の鬼怒川に添った地帯は岡見一族らが半独立の態度をとって後北條氏の節度に服するありさまとなった。
 多賀谷はこの形勢をみて、小田城の梶原政景と協力して天正一四年(一五八六)夏、小張城に只(唯)越全久を攻め滅ぼした。
 板橋城には岡見の将月岡玄蕃広秀が守っていたが下妻方に降ったので、青木治部、風見兵庫が板橋城を略し、代わって同城の城主になった。この風見氏は水海道高野の地侍を詰めて守備することになった。そして兵糧は農夫に水海道から運ばせたのである。