天正一四年九月、重経は野口豊前、河田出羽らを南下させて、岡見中務宗治の足高城を攻めた。多賀谷は先には谷田部を落としたが、今度、足高に迫ったので、城主宗治は自らも鑓を揮って戦ったのであったが、従兵が続かないので、馬をめぐらして帰城し釣橋を曵きあげて守った。
野口は一兵に命じ板を堀に架け渡させ、兵に堀を越えさせて水際から城を襲わせようとしたが、栗林義長の軍勢が城を援けようと迫って来たので野口らは引き揚げた。
次は橋を城濠に架けた様子を示している。
天正十四年九月廿四日 足高にて、町さし入の橋をとりあげさせ 槍下にて橋板二枚かけ申候、連合
(つれあい)候衆木田源兵衛又は多賀谷大夫使として美野部日向参候て存候事
とある。
天正一五年(一五八七)一月二〇日、多賀谷重経、秋葉某に官途を与えた。
官途之事、成候者也
正月廿日 (重経花押)
秋葉大膳殿
以上は前年度の戦功に報いたものである。
天正一五年(一五八七)三月ごろ早くも重経は足高と牛久の間、両敵城の連絡を遮断するため進出した。西方足高には北沼を距て、東方の牛久には牛久沼を以って距てている。楔(くさび)を入れたように初崎(泊崎・八崎・針崎)城を築いた。この城が重要な重経方の基地となったことは、北條氏照の書状によってわかる。
去九日の注進状今一四日、小田原にて披見仍て其地を八崎(はつさき)と号する地は多賀谷重経が取立た
のか、牛久よりの注進も同じようである。御地の足高は敵の居地に近いから、誠に苦労多い事は仕方が
ない。然しながら御大途氏政が敵を追払われる事はたやすいが、いよいよ此方も堅固の防戦も肝要であ
る。猶これからも申上げたい。恐々謹言
(天正十五年)三月十四日 氏照(花押)
岡見中務大輔殿 参
文意によると牛久城からも通知があったようである。天正一五年三月一四日、小田原の氏照より足高城主岡見中務少輔に宛てたものである。この初崎城の所在はしばらく不明とされたが判明した。しかし壊滅に瀕している。
此度其地に向ひ多賀谷打出で 地利を取立るの由手前の備一段御心元なく候、然は御加勢として、高城
衆 豊嶋衆 之を払うに指起され候、此節に條々手前弥々堅固の防戦肝要至極に候、其の為牛久へは竹
内を指越され候條 其口の様子委細注進あるべく候、其のため申届け候 恐々謹言
(天正十五年)三月十八日 氏照(花押)
岡見中務少輔殿
これは「多賀谷重経が足高へ向かって出て、地利のよい初崎城を築いたとの事、足高方の備が心配になった。ついては小金城の高城氏や布川城の豊島氏を加勢に出すが自分でも防備堅固が大切である。牛久へは竹内氏を遣したから、牛久口の様子をくわしく報せてくれるよう申達する。謹言」とある。
同年四月三日も氏照は援軍の事を申し送っている。また千葉氏にも応援を求めている。千葉氏は家臣井田氏に牛久城御番として兵を率いて佐竹氏や多賀谷氏の南下を警戒するため詰めさせている(千葉氏文書)。
また、三月一三日付 八王子城留守の部将、狩野一庵宗円(もとは氏照の祐筆)からは
前略…多賀谷の初崎取立の事、絵図でわかった。御手詰推察申すに痛ましい次第である。この春は豊饒
でお手すきなので、小田原では大普請を始め、氏照は在城されている…中略…拙者は八王子城に留守し
ている云云とある。
初崎城が重経によって築かれたについては、北條方は心痛しているのである。
しかし、氏照の書状にあるように、高城勢や豊島勢の援軍が足高に入城して勝つことが出来た。
天正一五年(一五八七)六月一六日、多賀谷勢は小田原方の援軍をはばむための鬼怒川堤を切ったりして戦ったが遂に破れた。
態々(わざ/\)飛脚到来、仍て多賀谷其他足高へ相動く処 堅固の備これありて敵を押崩し 多賀谷信
濃守を始め、宗徒の者共数十人を打ち取られし由 誠に心地能き至り満足この事に候、度々其地に於て
の勝利、併しこれは御稼故に候 感悦致し候 則先ず注進状をつくって小田原へ申上け御取合に及ぶべ
く候 猶自分ら手前の堅固の備肝要に候 恐恐謹言
(天正十五年)六月廿五日 氏照(花押)
岡見中務少輔殿
なお同二五日には狩野宗円、同二六日は狩野照宗から岡見氏に勝利の祝賀状があった。照宗の祝状は省略して宗円のを要約してみる。
此度 重経みずから打立って(鬼怒川)堤を切った処、防戦して信濃守を始め宗徒の者廿余人を討ちとっ
た由、誠に心地好くお仕合せは口には申せない程である。陸奥守氏照も大満足で直接の祝状がある事と
存ずる。中略…岡見治部殿に御相談して、来る十日頃急度打出でらるゝ陣触を仰せ上ぐる。中略…雁、
菱などお送り下され珍らしく賞味此事です。
六月廿五日 一庵宗円(花押)
岡中(岡見中務)御報
宗円は中山館の中山家範と共に、天正一八年豊臣秀吉が小田原城を包囲するに当たって、八王子城主北條氏照が小田原に籠城するに及び留守を委任された両将である。その分流で戦後、岩井の辺田に移住した中山諸氏や、富田村地頭飯田氏などとは苦を共にした間柄である。当時辺田には馬洗城があったが城主横瀬主膳は小田原没落と共に去った。かつ、飯田氏の招きもあって移ってきたわけだが、中山氏と横瀬主膳は、水海道、守谷方面で行動を共にし下妻勢に対戦している。