岡見氏の反撃戦

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天正一五年(一五八七)板橋城主の月岡玄蕃は降って糟内に移されて、風見、青木が板橋に入城したことは前記した。次に下妻勢が岩崎城(稲敷郡茎崎)の唯越尾張を攻むると、唯越は部下の命を助けてもらう代わりに自殺したいと申し出て許された。
 下妻勢は釡田砦(板橋村南太田)を築いて足高への押えとし、多賀谷信濃、窪谷能登らに鬼怒川堤をこわさせて足高への豊島氏らの援軍をさえぎらせようとした。重経は自ら足高を攻めた。この時、若柴(龍ケ崎)からの援兵が来て下妻勢を討ち破った。時に、天正一五年六月一五日で多賀谷信濃、窪谷能登らは戦死した。重経の本隊も苦戦となったが自ら殿(しんがり)して威風堂々と太田に退いた。その態度に圧倒されて南方援軍は追撃が出来なかった。
 
   足高と申所に而 堤を切り申候に足高衆と出合槍御座候に 味方おくれに成申候て 多賀谷信濃と申
   者 富田 横島 小松 窪谷 園 以上七人 討たれ申候 時に我等跡を仕り候て 馬をかへし敵の首
   七ツ取申候 内我等一つとり申候 多賀谷(重経)喜ひ申され候 我等方の方へ礼状御座候
 
 雑兵は数多く討たれただろうが、信濃守ら数名は名ある侍である。これは重経にとっては悲しみであるが野口が岡見方やその援兵のしかるべき侍の七つの首も打ちとったことであるからこれについては、重経は喜んで礼状を野口始め部下に寄せたのである。
 その後は戦局は逆転、岡見中務宗治は討死までしようとしたが、桜井土佐に諫止されたので残兵を率いて搦め手より落ちた。桜井は岡見の奥方らを船に分乗させて牛久城を指して脱出したが、奥方は嫉妬して謀殺した主人の愛人の怨霊に祟られて溺死したという。その供養石祠は悲劇を見おろすように八幡宮参道の側にある。桜井は牛久へ遁れ籠城したが下妻勢に攻められた。
 先に足高城を救った豊島・高城らも船で藤代に落ちた。相馬小次郎は敵随一の猛者塚田兵庫を斬り、本多越中は松田七郎を討って善戦したが下妻の多勢に押され両者共に十王堂前に陣した敵を追い払って守谷城に退いた。
 岡見宗治は若柴に向かって発したが中茎・古沢(赤松)らに追いかけられた。いったんはこれを撃退した。残兵僅かに二〇〇になってしまったが多賀谷三経を主将とする小口・間宮・高橋・吉原・新井・中川・堀越・松崎・皆葉らと戦を交えながら河原代陣屋に逃げ込んだ。しかし陣屋は敵の別軍、沼尻、平井手、山口、高野らに火攻めにされ、裏門から小舟一〇余艘に分乗し若柴に落ちた。殿軍をつとめた木村兵庫は安楽寺に入って切腹し果てた。これをみて多賀谷将監は民家をこぼちて筏を作って若柴へと向かった。
 栗林義長は重経の拠った岩崎城を攻めようとした矢先に、天正一五年八月、足高城にて病没したので南方勢力は一頓座を来たした。
 宗治は手だてをしたが、義父岡見伝喜とは円滑を欠いた上、重経に謀られた。伝喜は重経に和を通じた。白井全洞の取りはからいもあって、牛久城は岡見治部頼房が従来どおり保つことを条件として足高を重経に渡すことにした。
 宗治は諫止したが聴きいれないので、豊島、高城、寺田らと共に期するところがあった。同年一〇月、伝喜は遂に和議の酒宴の席で謀殺されてしまった。早速、寺田は沼尻又次郎勢を討ち沼尻を銃弾で倒したが、その弟又三郎のために仇討ちをされて死んだ。又三郎は重経から感状と知行地を受けた。
 「今度足高に於て比類なき働也、依之河内郡の内十六郷宛行者也」と。
 高城兵庫と豊島紀伊らは戦死した寺田に代わって防戦し、本多求馬、前野、椎名、斎藤、青柳ら相馬勢は奮戦したが、石下勢が追手(大手門)に乱入して放火したため総敗軍となった。足高本丸には桜井土佐が殿軍となって大敵に当たり、主将宗治の奥方を救出しようとして牛久へ船出したことは前記した。この本丸の殿軍を火と共に攻囲したのは水海道勢の五木田釆女之助、同弥左衛門、古谷刑部、風見若狭、同主税、神谷左馬之助らであった。
 南方勢は後北條氏を主とする武相勢・高城・相馬・岡見と猿島南部勢で、これに対し北方勢は佐竹氏を主とする下妻・豊田・水海道勢などである。