由良は重経の拠城に、大道寺は多賀谷三経のいる牛久へと藤代川を越えて手分けして進んだ。当時、三経は岡見中務少輔宗治を追跡して河原代陣屋を落とし若柴へ進んで宗治に追いつき火攻めにしたことは前記した。岡見の部将石引・中島・桜井らが出て防戦したが椎木、豊田、石下、鯨、宗道、吉沼等、元の豊田家の勢に破れて岡見宗治は痛手をうけ高崎小松原へ退却し一時行方不明になっている。三経は牛久へと進んだ。城主岡見治部大輔頼房は山口左馬之助、沼尻又五郎らと戦って破れ高崎へ敗走したが急追され、岡見家の運命は風前の燈火となった。そこで岡見刑部に妻子を託して遁れさせ、残兵で敵を待った。沼尻が岡見に追いつき討ちかかったので木村・斎藤・宮本らがさえぎったが当れなかった。頼房は弟谷田部城主主殿頼治の仇討ちをしたかったのだが、馬を射られ徒歩(かち)になって荒れ廻わっている沼尻には太刀討ちが出来ないので切腹して高崎野の露と消えた。
下妻勢は牛久城を手に入れたが一部の者は後北條方の上州・武州等の大軍に敵対するのは無謀とし、和睦して谷田部へ退くのがよいとした。主将三経は一戦の上、退城したいと唱えたが、兵糧の欠乏にせまられたこととて沼尻の諫めに応じて引鐘を打ち鳴らして谷田部に退いた。
牛久城へ迫った大道寺勢は鯨波(とき)をつくったが反応がない。斥候が近所の百姓から今朝未明、下妻勢が退城したことを聞きつけたので全軍入城した。そこへ重傷の岡見宗治が数十騎を率いて来て大道寺に対面し、その目前にて空しく没した。
岡見家は常陸大掾家の分流の名門であったが天正一六年三月のこの日に滅亡したのであった。由良国繁は降人の青木らを先手として急ぎ着城したが、接したのは宗治の遺骸であった。落涙数行、往年の御恩に報ずるに間に合わなかったことを深く悔み遺骸を厚く葬った。弔いの後由良・大道寺は牛久城に諸将士を集め谷田部城攻略の企を評定している。