多賀谷勢の退却

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天正一五年一二月二八日、多賀谷勢は谷田部から出発して小茎(茎崎村)高崎(茎崎村)を経て牛久城の前手の東輪寺城(茎崎村新地)を攻めている。野口豊前が参戦している。
 
   牛久東輪(林)寺と申候所にて、景賀大蔵 鑓にてつきおとされ、打たれ申候所に 我等わきより馬を
   入 敵の鑓をけおとし申候て 大蔵たすけ申候 我等やりけおとし申ものを 小貫縫殿助と申もの 
   打申候事
 
 東輪寺の戦で、味方の大蔵が敵の槍で突き落とされたのを我らがその槍を蹴落として救った。その敵の首は縫殿助がとっている。この戦には次のような槍合わせも見られる。
 
   一極月廿八日、東輪寺の城戸はりに添詰め我等木戸へ取つき申候所に 敵わきより罷出候間 そこを少
   退(のけ)申候に 槍下に而飯村豊後 馬より落候て 退かね申候所を大木治部我等両人馬をかへし申候
   故 敵を押とめ豊後 助け申候 同日小茎(くき)の堀のきわにて 敵襲い参候を 大木治部と我等初馬
   にかへし申候ゆへ 首七つ取り申候事。
 
 野口らが東輪寺城の木戸べに着いた所、敵がわきから出て来たので一寸退いたが、飯村は槍下になり落馬して退きかねていたので大木(青木治郎とは別人)と二人で戻って助けた。その日に小茎城濠ぎわにて敵が襲って来たのを大木と共に馬を一番にかえし、首を七つとっている。
 以上は天正一五年一二月二八日の戦であるが、重経は牛久勢との戦に善戦立功の将士には、後日に至って受領や官途を与えている。
 
   尚々両度もの主たちの儀誠に以て是非に及ばず候 今度牛久衆数多討捕候刻 走廻の儀 奇特に候 玆
   に因 受領の事相意得(こころえ)候 仍て件の如し
    天正十六年九月十三日  重経(朱印)
     落合丹波守との
 
 なお、同日石浜氏にも感状が与えられている。
 
   今度 牛久衆数多討捕候刻 走廻之処 奇特に候 尚以向後其嗜肝要に候 因玆受領之事意得候
   仍如件
    天正十六年 九月十三日 重経(朱印)
     石浜因幡守との
 
 東輪寺の戦には五家(水海道五家)の石塚氏も参戦している。官途状はかなり後になって戴いている。
 
   官途之事 御心得候 如件
    天正十七年正月廿日  重経(朱印)
     石塚将監との
 
 石塚氏は将監なる官名を実は弘治二年、海老島の戦功によって得ているが、このたびの戦功に受領もあり、新たに山城守なる名国司に任ぜられている。
 
   受領之事 意得之候 謹書 重経(花押)
     (天正十七年)正月七日
    石塚山城守殿
 
 あるいは弘治二年から三三年も経ているから、後継者への賞与とも考えられる。なお石塚氏の参戦受賞は、他の水海道勢の出陣を意味するものである。
 この戦のころ、小田氏は常陸から退いて奥州にあったのであるが、かつて元の勢力範囲は、谷田部城・東輪寺城・牛久城等に及んでいる。
 小田氏治・上杉輝虎に対抗した時、結城晴朝、山河氏重、水谷政村、多賀谷政経等と結んだが、自ら注文した味方は次のとおりである。
 
   一つちうら すけのやせっつのかみ[菅谷摂津守政貞]
   一きたまり[木田余] したいせ[信田伊勢]
   一とさき[戸崎] すけのや次郎さへ[え]もん
   一しゝくら[宍倉] すけのやむまのてう[馬之允]
   一やたべ[谷田部] 同とうりんち[東輪寺] おかみたんちゃう[岡見弾正]
                       こんとうちふ[近藤治部]
   一うしょく[牛久] おかみの山しろ
   一とよた[豊田]   さへもんのてう[左え衛門尉]
   一とき[土岐]   大せんの大ふ[大膳大夫]
     以上九ケ所
 
 当時、小田氏の勢力範囲が察せられる。また、豊田氏が左衛門尉の官名が世襲されたのは鎌倉初期以来である。そしてこのころ小田氏とは縁戚関係を結び互いに戦時には援け合いをしている。