後北條氏、多賀谷氏と和睦す

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谷田部城にては軍議があった。重経は諸将を集め、寄手、由良国繁や大道寺政繁の大勢の外に、小田原の大軍が松戸に着したというがそれへの対策をたずねた。そこへ三経が牛久城より逃げ帰った。重経慨歎し、下妻を出ずる時、万余の兵、今半ばとなる、勝つ見込みはないと。大竹蔵人は一戦を遂げようと叫ぶ、時に敗戦の両士の石塚左京と渡辺播磨が至った。両人は守谷から猿島大口へ退き、漸く谷田部へ来たという。由良・大道寺の勢いの強力なことも報告した。
 沼尻又五郎はひとまず和して後日再興をはかるがよいと発言し一同の賛成を得た。その交渉の人選に沼尻の推薦によって土浦城主菅谷左衛門正光がきまった。菅谷は中立を保って来たから適任であった。沼尻と同道して牛久城に参り由良と大道寺に対面して、今まで攻略した城々と谷田部より東南の地を残らず返上して和議したいと申し出た。両将は北條氏政父子が、わざわざ谷田部攻略のため豆相万余の兵を率いて松戸に着したのだから和睦は致すまいという。そこで菅谷と沼尻は三日間の余裕をもとめて松戸に至って小金城主高城(木)兵庫をたのみ、前条件による和議をとりついでもらった。
 北條父子は諸将に図ったが評議まちまちであった。時に小田原から使者が来て、豊臣秀吉が大軍を以て後北條氏を征伐に下るとの風聞があるから早々帰陣あってほしいとの報を伝えると、たちまち和議が成立し、大道寺は牛久に帰城するよう、由良は谷田部城を摂取するようとの伝達が出された。とにかく、和平が出来たので、重経より菅谷には御礼として手子生(てこまる)を与えられ、沼尻には本領安堵状が出された・時に天正一六年(一五八八)三月であった。
 

多賀谷・後北條氏の常総領域図