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我が国では古代、藻塩を焼いて製塩され調貢された塩が、神社の祭に朝廷より供えられた(『延喜式』)。民間では、味噌、ひしお、漬物等によって塩分摂取の工夫がなされている。中世豊田氏配下にあった地頭らは塩の配給権を有しており、小貝川流域一七郷では黒須太郎、鬼怒川流域一七郷は大里与一郎が代官より渡されて民間に配給をしている。隣接の関郷や下妻では、比気の五郎が司っている(「宗任神社文書」)。
 下総介千葉富胤は守護職で、永禄六年(一五六三)将軍足利義輝の御供に関東衆のうち古河公方義氏と共に参じ、天正元年(一五七三)には陣代原式部を関宿城攻囲に遣わしている。永禄八年七月七日、石毛大和入道に、塩の統制を命じ、「塩荷を所々に送るが、前々のように世話役の手代を出したり、塩舟の出役を勤めるよう申し付ける。もし異議に及ぶ者があらば搦め捕るよう」と申し送っている。
 豊田政幹は石毛(下)城にも拠っていたので石毛荒四郎といったが、その分流が、下総国旭(旭市)新川に移った豪族で石毛大和入道といった(系図現存)。
 豊田氏が地頭らに塩を配給させたのも、千葉介の指図からであろうが、千葉常胤の母が豊田政幹の女であるから、下総産の塩について配給など、その仕来りが戦国末期にまで及んだとみえる。
 室町時代のお伽草子「文正草子」に、鹿島神宮の〓人文正が塩焼をして巨富を致し、京の貴人の女を娶った物語があるが、鹿島の塩は北総に送りこまれている。
 古河公方の民政官福田氏は布川の豊島氏から塩や穀の運輸の免状を受けている(「古河・福田氏文書」)。
 
   於当津年中穀船壱艘塩船弐艘以上の三艘令免許申仍一札如件
    天正六年霜月廿二日   豊島貞継(花押)
     福田民部少輔殿
 
 豊島氏は布川城主であったから、常陸川(後の利根川)を遡航した鹿島塩を民部に渡したものと見える。
 醬油醸造は、下総野田では飯田市郎兵衛が永禄年間(一五五八~一五九六)豆(たまり)油から醬油を造り、甲州武田信玄に納めている。これが「川中島御用溜(たまり)醬油」といわれた。年代は降るが、境町宝永三年(一七七四)の「明細差出帳」に、「塩灰問屋御座候、銚子鹿島辺の浜より、行徳、小松川、かさい辺の塩売商人曳舟、陸舟(中馬)共ニ不断出入仕候」とある。天正二年には市川(千葉県)の田中喜兵衛が醬油造りを始めている。
 近世になっては、水海道醬油が岩井市場に売出され、文化年間には二等品の相場は金一両に付き二九樽であった(猿島町沓掛「倉持平左衛門蔵文書」)。