製鉄

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鉄の農具、古代製鉄業は官営であった。奈良期に初めて権臣藤原仲麻呂が近江の鉄穴を戴いている。増産には鉄の鍬・鋤・鎌が必要なので、官や領主は百姓に貸与している。北総の各地に製鉄址や鍛冶屋敷跡があるが、これは鉄山師や鋳物師が特許を得て作業した遺跡とみえる。内守谷本郷には刀子・鞴(ふいご)羽口・坂手の剣崎・菅生の中郷に鉄滓、菅生字上野のもと円墳址から短甲の鎧の一部、辺田村に農具破片など出土している。なお大生郷金戸、大輪の金谷等地名まで残っている。いずれも、川や沼縁で砂鉄を揚げるのにつごうのよい所である。
 堤普請や城普請には百姓に鍬と畚(もっこ)を持って来るよう命じ、さらに大鋸を持参するよう、後北條氏は伝達しているが、これは近世を通じても行われている(古河、新井家御用留)。
 天文一二年(一五四三)八月二五日、ポルトガル人一〇〇余、種子ケ島に漂着し、伝来の鉄砲で鳥を撃ち落とした。領主時堯(ときたか)は高価な二挺を需めて家宝とし製砲を始めて「種子ケ島」と称した。
 佐竹氏は製砲を導入した紀州根来(ねごろ)から鉄砲を輸入し根来寺僧大蔵坊をよび操法も伝授している。
 織田信長は鉄砲足軽隊で長篠の戦に武田勝頼の騎馬集団を破っている。常総では佐竹氏が永禄一二年(一五六九)一一月、手這坂の戦で僅か八挺で小田氏を破っている。辺田(岩井)の馬洗城の戦に天正五年春、下妻勢に攻められた際聖徳(今の西念)寺の鐘に銃痕を残していたが、この鐘は幕末、供出されている。天正五年八月一九日、栗原義長は佐竹氏の将、東丹波守と真瀬(谷田部)にてはげしい鉄砲戦を演じている。
 大筒(大砲)は後北條氏が天正一三年(一五八五)鉄砲鍛冶らに数挺鋳造させて城に備えている。