蓑・笠

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百姓の一揆を蓑笠騒動というが、これは蓑笠を鎌とともに持参するからである。蓑笠は古代から雨露をしのぎ野宿にも必要であった。
 平将門が承平七年一〇月一九日、良兼を討つべく筑波山麓の羽鳥を襲い、さらに二三日、弓袋に至ったが、その間、『将門記』には「夜は則ち弓を枕とし、風雨には蓑笠を家となし云々」とある。農民では多く自給し、後世、弓田(岩井)では名産物となっている。
 後世に至っても庶民は下駄や足袋は用いず裸足(はだし)であった。雨具の傘(からかさ)はその名のように伝来品であるので一般は雨具には蓑・笠が使われた。菅生沼には菅が生え菅笠の材料となったであろう。南に連なる藺沼と豊田郡南端に続く守谷沼は藺草の産地で、相馬郡井野村は藺の村の意でその産地は外一三か村と共に浅草の弾(団)左衛門の支配する燈芯を婦女子らに藺から抜きとらせている。藺の根分け植付けは旧一一月から年始までで、夏土用に刈り雨にかけぬよう保存し農閑に芯を抜きとるのであった。草は藺筵など織られる。太田道灌が狩姿でみる冠りものは藺笠である。庶民は笠にもしたが畳も造っている。中世、民屋では床のない家が多く藁・籾殻を積み藁筵や藺筵を敷いて寝居していて、また蓙(ござ)もつかわれている。