馬牧

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馬は船・筏と共に通運の柱であった。ほかに農耕増産に役立っている。天智天皇の七年(六六八)七月、駅馬、伝馬の制が始まり、文武天皇の四年(七〇〇)「東国に牧地を定む」、とあり、古間木(古牧)など設けられ、弘仁二年(八一一)には私牧の奨励もあった。延喜五年(九〇五)の「延喜式」には下総国には兵部省馬寮の五牧のうち、北総に大結(大間木・大牧)牧と長洲(長須)馬牧が設けられた。大間木(八千代町)には長い土手を残し、東方には平将門の陣頭、多治経明を別当(長官)とする常羽(いくは)の御厩があり、さらに花立(馬の鼻立)から南へ馬場(馬場村)があった。古間木の南隣の花島村に妙見社があり、また、築地を残す大輪村がある。飯沼に沿うては大野(大生)牧、駒を込むる駒込の地もあった。飯沼郷内の大野牧は中世、石塚氏らにより開発され大生(大野の宛字)郷が分立した。飯沼を隔てた猿島郡には馬牧が多く大野錢場と小野錢場があった。
 相馬郡は伊勢神宮の御厨であり、その神馬を奉献している。養和二年(一一八二)、源義朝が上納した貢の内に上馬二疋がある。これ神馬である。菅生村には宝永年度ではあるが馬一七七疋あり、地名に馬坂台、遺跡に馬牧土手が残っている。
 陸奥の相馬中村(福島県相馬郡)の野馬追は妙見社の祭事で、相馬氏が源頼朝より藤原氏征伐に恩賞として賜った地に、元亨三年(一三二二)に相馬師胤(あるいは重胤)が移った時、馬牧地もあったこととて、下総相馬で行われていた野馬捕えの行事を移したものであるという。
 岡田郡飯沼郷の伝馬等は、古間木城主渡辺氏が多賀谷氏から管理をまかされている(「石塚安一郎氏蔵文書」)。
 
   いいぬまの庄 馬のあしの事、前々のごとく其身にまかせ候、此口(下妻から飯沼)の商人とかくの儀候
   ともことわって可申候 謹言
    天文廿三(一五五五)年甲寅正月廿一日 政経(花押)
     渡辺新兵衛尉殿
 
 右により渡辺氏が飯沼郷を縦貫する横曽根までの伝馬と商業の世話をした事がわかる。