鎌倉幕府は家人を地頭職にとりたてている。その館に堀を廻らし「堀之内(ほんのうち)」と称し、土堤の四隅には稲荷様など四社が祀られ、遺構は岡崎(八千代町尾崎)の秋葉氏、伊古立(千代川村・立は館の意)の永瀬氏・富田(岩井市)の飯田氏等にみられる。堀は矢戦のころの防衛に間にあい、周辺手作の田の用水にしている。ただし隔たった田畑は小作地にし、小作人には鍬鎌など農具を貸与して増産に努めさせた。
古来、公私の経済・生活のささえは米・麦・粟・稗・豆等五穀や麻など衣料を主とする農民の生産であった。
古河五代公方義氏はまだ梅千代王丸といった永禄二年(一五五九)、上杉謙信の来攻を案じて、上州金山城主横瀬成繁に、古河城の普請を連絡しているが、その領地新田(にったの)荘の用水事業に同意喜悦の意を表している。
「従二広津郷一新田庄江自二前々一取来候用水之義申上候 任先例…中略…
御代官申上候条御悦喜候…中略…依而御判被レ下レ之候謹言」
八月廿四日 梅千代王丸(御判)
横瀬雅楽助殿
この雅楽助は由良信濃守成繁で、天文五年には「百姓掟」をだしている。その文案は後述することにする。
公方義氏は、天正二年(一五七四)家臣、伊賀藤七郎に馬立村(岩井)を知行させ周辺に用排水路を設けさせている。
馬立村の東北には馬立谷津(飯沼入江)、西南には菅生沼入江がある。この両方に用排水路を設けた。
伊賀の名にちなんで、これを伊賀堀と称し、架した橋を伊賀橋と呼んでいた。馬立の農民が伊賀へ行くということは、馬立谷津の稲作や草刈りに出ることであった。
昭和五四年の耕地整理で、堀の名も消えてしまったが似よりの名のエガワ(江川)と命名して今日に至っている。