新地開発

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筑波郡足高城主岡見伝喜は、横瀬成繁一族の擁護者であるが栗林下総守義長を召して、近年凶作打続き兵粮に乏しく軍用のため、新地を開墾するよう申すと、義長その旨を板橋・小張・龍ケ崎へ伝達し、飯塚右馬之助・海老原石見・大野主馬・直井修理・矢口若狭・小川外記・土田隼人・浜野平太夫・山崎図書・間根山和泉・小菅左衛門・佐野内膳・宮本隼人・大徳勘太夫・寺田佐渡・木村兵庫・石引左衛門・鴻巣弥太夫等を奉行として天正六年の春より開墾を始め、物成を三つ一つにしたので百姓ら悦び草の根を切り起こし、稲を植え付けたが、初年は三〇〇石余、翌年は一〇〇〇石余り納まったので岡見氏大に悦びその奉行らを召し、褒美として米五〇俵ずつ与えている。多賀谷重経もこれを聞き、新地開くべしとて人見右京・中茎佐内・古沢安太夫・吉原備前・秋場縫殿之助・小口左馬之助・内田刑部・落合九郎らに所々に分かれて奉行として新開させると初年は四〇〇石、翌年には一五〇〇石余納まったので多賀谷氏は大に悦び兵粮差支えなくなったと奉行らにそれぞれ五〇俵ずつ与えている(『東国闘戦私記』)。
 関ケ原戦後は谷原新田の開発などみられ奉行郡代伊奈半十(忠治)より、増田氏・小林氏・秋場氏など屋敷分として一町歩ずつ与えられている。上蛇の伊右衛門には七反歩が与えられた。