後北條氏二八竜将の筆頭大道寺氏は代々関東を馳廻り、戦国末期は北総常南にて活動し村民の実情を観察しているが『落穂集』に、
「其所の名主長(おさ)百姓たりとも 家内に床をはり畳を敷たる家とては一軒も無く 男女共に身には
布子と申す物を着し縄帯を致し わらにて髪をたばねたる者計(ばかり)の様子に有之候由」
云々
と述べている。
右文に「名主さえ床がなく、畳を敷いた家がない」とある通りで一般農民は、縄しばりの木材の家で、屋根は茅あるいは葦、藁葺きで、竹を編み、泥を塗って壁としている。
「布子と申す物を着し」とあるが、これは麻布で、なお木綿(ゆう)なる楮、桑、三又等の繊維の織物が自給されている。未だ居ざり機で織り高機(たかはた)はない。染料も梔子(くちなし)の実、櫟などを自給し、藍は購入し、紅花は少し作られ、柿渋も用いた。柿渋は防腐や縄の伸縮しないようにも使った。
絹は紬として結城では織られたが、鬼怒下流流域では産しない。綿も三河綿など中世にもあったが、北総では文禄・慶長の朝鮮の役後に導入されたという通り近世から産する。