掟と禁制

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天文五年(一五三六)正月、北総常南に関係深く、かつ天正五年八月には水海道へも攻めこんだことのある上州金山城主由良成繁の定めた「百姓掟」を左に述べてみる。
 
     百姓御仕置御法度之事(篠塚茂左衛門家蔵)
  一 毎年種籾麦大豆三用ハ御城之御蔵ニ差置入用之時分代官所江断可申請附分給人之百姓も庄屋(名主)本
    より可右通
  一 御普請之時人足壱人ニ付永楽銭五文ツツ可下置
  一 敵在々所々放火之時鍬鑑(鎌)を近所之寺家へ差入可申候事
  一 野山林竹山以下心之儘ニ切取所々へ夜打狼藉之輩有之時ハ所々代官又ハ近隣之城主ニ断リ多数を召捕
    可申訴人致候ハヽ褒美可被下候事
  一 侍中と縁組仕間敷候事
  一 御領百姓給人所の百姓と公事 御領百姓四分勝利有之ハ奉行所之公事代として百石ニ付永楽銭五百文
    可差上事 附(つけた)り其所之庄屋五人組永代所払致所曲事急度可申付
  一 給所(私領)之百姓御領(公領)之百姓と公事 給所之百姓十分勝利有之ハ三ケ年入寺可為事并ニ御領之
    百姓ハ其当人百姓五人組奉行所へ差上可申候事
  一 御領給所代々公事口論共為致ハ其所地被召上無地可被仰付候事  (下略)
 
 この掟が水海道絹西辺で行われたとみられるのは、横瀬氏が当地に持参し、永年にわたり治村に当たっていたからである。
 成繁は、後北條勢に対抗出来ず、天文二〇年代に、子の国繁をはじめ二〇〇余兵を従えて縁故を頼って若柴(龍ケ崎)の岡見伝喜の許に来住し、
 天正二年(一五七四)五月、後北條氏にうとまれて弟横瀬永(長)氏と共に金山城に帰った。後、天正五年八月の水海道城攻防戦には出陣している。永氏の子の主膳繁氏は、馬洗城や大塚戸城によって、小田原落城まで約四〇年間近く拠した。また、由良氏の重臣で幸田村(岩井市)に帰農した篠塚伊賀守の一族が今に成繁の「百姓掟」を持参しているので、その実施も考えられる。
 「結城家法度」には、作物保護の条々がある。
 
一 夜他の作畑に入った者は殺されても死損
一 作稲を刈り捨てれば、その郷及び近辺二~三ケ郷へ過料をかける。
一 放火は死罪
 
 以上は農村保護の法度であるが、戦国の世は敵の武力、その担い手の農民の生産、生活力を破壊する場合がしばしばある。
 結城家の分かれ山川讃岐守の掟制に、
 
一 苅田小屋落、下知次第の事(これは南北朝の頃から守護の下知権となっている)
一 制外の乱取(婦女を捕える)は前後に寄らず手形を本とする事
 
 等ある。これは命令があれば乱暴をしてもよいということである。
 天正二年九月一四日に、多賀谷勢が猿島郡に侵入し、伏木村、若林村(共に境)の寺社や農家を焼き尽くし、さらに長須村(岩井)の阿弥陀寺伽藍や農家を残らずやいたことがある。
 結城晴朝は壬生(みぶ)城攻めに当たって徹底的に農作物を刈り取り、燃し尽くしているが、晴朝が関東に上杉謙信の出馬を要請したのに対し、天正六年(一五七八)二月一〇日、謙信は二月では時節にあわないのだが「麦秋敵地郷損可然候」と申送っている。天正五年、北條氏政が下妻を攻めるため堀戸山(仁江戸)に陣した際、後方土呂賦辺に陣した兵が農作物を損ね狼藉をしたので、農民は皆、鬼怒川の東側に避難している。
 このようなことは当時各地方で起こり、領主は次のような禁制によって厳しく取り締まった。
 
   禁制
  一 当手軍勢乱妨狼籍(藉)之事
  一 放火の事
  一 対寺中愁訴候儀付青毛苅之事
   右条々堅く相守るべく違背者在之者可厳罰者也
    天正十八年六月 日   (秀吉朱印)
                 浅野弾正少弼(花押)
                 水村常陸介(花押)
 
 これは浅野長政、木村重玆(重成の父)が守谷城を摂取した時に長龍寺に建てたものである。