関東地方における戦国争乱は小田原城主北條氏の滅亡をもって、その終末を告げたものと解することができよう。
後北條氏は祖先長氏(早雲)以来、氏綱、氏康、氏政、氏直の五代にわたり、よく関東八か国の大部分を占拠し、その勢威を海内にとどろかせていた。しかし、その間に西日本における形勢は大いにかわり、特に天正一〇年(一五八二)六月、織田信長が本能寺において明智光秀のために殺されて以来、天下統一の機運はようやく豊臣秀吉の手に握られつつあったにもかかわらず、北條氏はなおもこれに抵抗するの意を示し、さらに干戈(かんか)を交えることも敢て辞せずとの態度をとった。そこで秀吉は天正一七年(一五八九)一一月二四日、書簡を北條氏におくり、翌年三月を期して秀吉自ら兵をひきいて討伐に向かうことを告げた。このとき秀吉にしたがう兵は東海道以西、近畿、中国、四国、九州の諸大名はもとより、越後の上杉氏などが出兵し、関東においても下野の宇都宮国綱、那須資時、常陸の佐竹義重、多賀谷重経、下総の結城晴朝、水谷勝俊などもまた秀吉に誼みを通じ、さらに奥羽の伊達政宗も秀吉の催促に応じて小田原に着陣したほどであるから、北條氏はまったく四面楚歌の裡におかれることになった。
さて、北條氏の領土は本城のある相模国を中心に伊豆、武蔵、上総、下総、安房、上野の全部と下野、常陸の各北部をのぞくほとんど関東八州に及び、したがってその戦線は各方面に展開されたので、討伐軍を迎えうつ北條軍の防備もまた容易なものではなかった。
まず討伐軍は三月二九日、相模国山中城及び伊豆国韮山城に攻撃をかけて、これをおとしいれ、ついで主力部隊は小田原城を包囲した。さらに優勢な各方面軍が北條氏の支城に対して、それぞれ攻撃を開始したため、これに抗する術を失った北條軍は、相ついで攻略されてしまうという結果となった。いまその例を北総地方に挙げて見ると、小金城(現、松戸市)の高城胤則をはじめ、守谷城、下高井城、筒戸城に拠っていた相馬一族、布川城の豊島頼継などがそれである。しかし、なお肝心な小田原城はこれに屈せず、籠城をかさねること約四か月、その間、籠城軍のうちに内部分裂を生じ、士気またとみに衰えをみるにいたった。このため、氏政父子はついに城を開いて降伏することに決し、ここに北條氏五代にわたる覇業はもろくも崩れ去ったのである。時に天正一八年(一五九〇)七月五日、これを契機としてはじめて応仁の乱以来一二三年にわたる戦国争乱の時代は終りを告げるにいたったのである。