忠次が家康の命をうけ、はじめて河川改修の大工事に着手したのは文禄三年(一五九四)のことであるという。文禄三年といえば、その前々年秀吉は兵を朝鮮に派遣して海外征服の夢を追っていた時期である。しかるに一方関東においては、家康は堅実に領国経営のため百年の計を立てて治水事業をおこし、殖産をはかり、民力の培養につとめていたのである。
さて、利根川は茨城県の西部古河市附近では埼玉県と相対し、さらに猿島郡五霞村の北端をかすめ、同郡境町より下流においては取手市の一部である小堀地区をのぞき、ほとんど茨城、千葉両県の境界をなして西より東に向かって流れ、ついに千葉県銚子市、茨城県波崎町の間において太平洋にそそぐ一名坂東太郎の名をもって知られる大河である。この川、その源を群馬県の北端にある丹後山に発し、流長は延々三二二キロ、支流もまた二八五をかぞえ、我が国では信濃川に次ぐ第二位の河川である。したがってその流域は群馬、埼玉、茨城、千葉の各県にわたり、さらに支流としては上流部で吾妻川、片品川、その他の細流を集め、中流部では神流川、渡良瀬川、鬼怒川、小貝川、下流部では印旛沼、手賀沼、霞ケ浦、北浦などの湖沼をあわせ、中流部以下は関東平野の沖積低地をゆるやかに流れ、往時から郷土人の生活と密接なかかわり合いをもってきた川である。
しかし、この利根川はもともと現在のような流路をなしていたのではなく、近世期にはいってから人為的に変えられたもので、その大きな理由は、先に述べたように、徳川氏の政策として大洪水による災害を防ぎ、さらに新田を開発して領国経営の安定をはかることにあった。
文禄三年(一五九四)はじめて利根川治水工事を家康から命ぜられた伊奈忠次は、まず利根川河道の附替えに着目した。そのころ利根川は前述のごとく、上毛の山間より発して周辺の山岳地層を深くえぐり、水上町あたりで河岸(かがん)段丘による渓谷美をつくり、渋川市、前橋市にいたる地点よりようやく関東平野の一角に達し、以下は平坦地を流れて武蔵国にいたり、ここより上野、武蔵両国の間を縫って約三〇キロ、川俣(現、埼玉県羽生市)附近において流路をやや南に向け、それより下流はおおむね現在の東武鉄道日光線に併行し、古利根川又は葛西用水と称する川筋を水元村(現、東京都葛飾区)に突きあたり、ここでにわかに流路を西にかえ、古来、古隅田川の名を伝えている細流に沿って小菅村(現、葛飾区)にいたり、さらにその北綾瀬川と荒川が合流するところ鐘ケ渕(現、墨田区)において現在の東京湾にそそいでいたのである。
忠次はこの工事を命ぜられるや、自らその流域を踏査して地形の得失を測り、河道の附け替えを行うにもっとも適当なところをもとめた。そのころ、現在の茨城県猿島郡、北相馬郡、稲敷郡及び千葉県東葛飾郡、印旛郡地方は低湿の地が多く、その間に幾多の湖沼が存在し、その湖沼もまた湖沼から湖沼へとつながり、自然に一脈の水路をなしていた。それがためむかしはこれを「流れ江」と呼び、さらに藺沼、広河、常陸川などと称していた。忠次はこの地方が以上のような地形であることに着目し、利根川河道の附替えはまずこの地方をえらぶにしかずと考え、その一期工事として利根川が西より東に向かって流れ、ややその流路を南に変える地点にあたる川俣でその流路を絶ち、流路をそのまま東に向かって附け替えることにした。これを「川俣の締切」といい、利根川治水史上大きな意義をもつものであった。また、この締切工事には家康の四男で武蔵国忍(現、行田市)の城主松平忠吉も大いに協力したと伝えられている。
こうして忠次は川俣の締切を行うとともに、新たに河道を東に変えるため、現在の北埼玉郡北川辺町と大利根町の間を掘り割って栗橋にいたり、ここで南流している渡良瀬川を合せ、その河道を改修して東にすすみ、現在の千葉県東葛飾郡関宿町において渡良瀬川を太日川、庄内川に落し、利根川の本流をさらに東にすすめ、現在の千葉、茨城両県の間を貫き、「流れ江」と呼ばれている北総の沼沢地帯を貫き、これを改修して大河となし、ついに現在の流路をつくるにいたった。
この工事は文禄三年(一五九四)に工を起こし、完成したのは承応三年(一六五四)のことで、実に六〇年の歳月を要したことになる。その間、伊奈忠次は慶長一五年(一六一〇)四月、六一歳をもって没し、工事はその長子忠政によって引きつがれた。しかるに忠政もまた元和四年(一六一八)三月、三四歳の若さをもって没したので、伊奈氏の事業たる利根川改修工事は忠政の弟忠治がつぐことになり、同時に忠治は伊奈氏の家職たる関東郡代をも、忠政の子忠勝が幼少にしてその重任に堪えないため引きつぐことになった。こうして忠治はよく父忠次、兄忠政の遺業を承けて鋭意その任にあたり、利根川改修工事を完成させたのである。
利根川流路図