現在、谷原三万石といわれている地方は、かつては小貝川の流域で、筑波台地の縁辺をなす低湿地帯がひろがり、葭や蘆が生いしげっていた荒蕪地であったと思われる。しかるに伊奈忠次が代官頭、関東郡代として地方(じかた)支配の任にあたるや、各地にある未開発の荒蕪地を、それぞれの地方における在地土豪や有力農民に新田の開発をすすめ、これによって農業生産の増強をはかり、その実施者には成果によって褒賞として扶持や屋敷地を与え、大いに開発事業の促進をはかることにした。
今度、ひたち屋原(常陸谷原)新田情(精)入れ過分に発し、御奉公申すに付ては屋敷分として屋わら(谷
原)壱町歩長く出し候間、作り致すべく候。弥(いよいよ)、新田情(精)入れ発し候様に才覚仕るべく候
ものなり。仍って件のごとし。
申三月十五日 伊備前(花押)
向石下大学助
これは慶長一三年(一六〇八)三月、向石下(現、石下町)の大学助に与えた屋敷地宛行いの史料(増田家文書)である。さらに同年同月をもって、
今度、ひたち屋原新田情入れ過分に発し、御奉公申すに付ては、屋敷分として七反歩長く出し候間、発
して作り仕るべく候。弥、新田情入れ発し候様に才覚仕るべきものなり。仍って件のごとし。
慶長十三年
申三月十五日 伊備前(1)
ぢゃうぢゃ 新田(2)
伊右衛門
と、前文とほとんど同じ文言の書状を上蛇新田の伊右衛門にも与えている。
新田開発事業にあたったのはひとり忠次だけではなく、忠次亡きあとは忠治も利根川改修事業とともに、また新田開発事業をうけつぎ、鋭意(えいい)それにあたることになった。これについては次の二点の開発手形を挙げることにしよう。
今度、常陸谷原新田情に入り発し候ひて、御奉公申すに就き、屋敷分として谷原壱町歩永出し候間、発
し候ひて作り仕るべく候。弥、新田情に入り発し候様才覚を致すべきものなり。仍って件のごとし。
寛永八年未九月十一日 伊半十(3)
水海道
紋三郎江
さらにもう一点は、
今度、常陸谷原新田情に入れ発し、御奉公申すに就き、屋敷分として谷原三反歩永出し候間、発し候ひ
て作り仕るべく候。弥、新田情に入れ発し候様才覚致すべきものなり。仍って件のごとし。
寛永八年
未九月十一日 伊半十
中妻新田
助作
このように関東郡代として関東一円の幕領を支配統轄していた伊奈氏は忠次、忠治と父子二代にわたり、一面利根川改修事業を行うとともに、一方にはまた新田開発という大事業を手がけ、その業績また少なからぬものがあった。
近世初期水海道周辺の検地(田畑内訳) |
村名(検地年) | 田 (%) | 畑 (%) | 計 |
町 畝 | 町 畝 | 町 畝 | |
福崎村 (寛永11) | 31.31.22(81) | 7.53.29(19) | 38.85.21 |
中妻村 ( 〃 7) | 60.05.27(39) | 94.57.16(61) | 15.463.13 |
※長助新田( 〃 8) | 13.38.07(51) | 12.86.25(49) | 26.25.02 |
花嶋村 ( 〃 7) | 35.54.20(40) | 52.01.03(60) | 88.55.23 |
下大輪村( 〃 7) | 30.55.26(49) | 31.29.23(51) | 61.85.19 |
※大生郷村( 〃 7) | 27.48.08(29) | 67.11.07(71) | 94.59.15 |
※ | 長助新田は年貢割付状,大生郷村は『尊徳全集,大生郷村の仕法』より作成。 他は各村検地帳による。なお,屋敷地を畑に含めた。 |