幕藩体制と村

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慶長五年(一六〇〇)九月、関ケ原の役によって勝利をおさめ、天下の覇権をにぎった徳川家康は、同八年(一六〇三)征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開くや、関ケ原役の戦後処理として、しきりに大名の改易や国替えを行ない、その実力をしめすとともに、取りつぶした大名や移封によって生じた領地をことごとく幕府の直轄地とし、これを天領と称した。この天領と称する所領は幕府の初期においてはおよそ三〇〇万石であったが、その後時代をへるにしたがい、新田開発やさらに改易した大名の領地没収によってその数を増し、江戸時代の中期には実に七〇〇万石を数えるにいたった。この幕府直轄地のなかには関東、近畿、東海、北陸地方などにある商工業の中心地や米産地のほか、駿府、甲府などの軍事的要地、大阪、京都、長崎、堺などの政治的要地や商工業都市、佐渡、生野、伊豆などの金山や銀山の所在地がふくまれていた。そこで幕府のその広大な領地を支配するために、京都には京都所司代、大阪には大坂城代、駿府には駿府城代その他長崎や堺にはそれぞれ奉行を任命し、さらに各地の領地には関東地方の関東郡代、美濃、伊勢の両国には美濃郡代、飛驒の飛驒郡代、九州一円の幕領を支配する西国郡代、その他の地方には代官を配置してこれを支配した。それと同時に全国の大名は幕府より所領として与えられた領地を支配するため、これまた幕府と同じような統治機関を設けて領国支配を行ったが、その統治はあくまで幕府の統制下におかれていたので、大名独自の創意による独特の支配を行うことはゆるされなかった。このように中央には幕府という強力な統一政権が存在し、その下部に幕府の統制をうけながらも独立とした国家―藩―という政治権力があり、それによって全国を支配することになったので、この国家構成を幕藩体制といい、その機構の下に全国の都市、農村を問わずすべてが支配されていたのである。
 水海道市は昭和二九年七月一〇日、旧水海道町を中心にして結城郡に属する五箇、三妻、大生、大花羽、菅原、豊岡の各村と北相馬郡に属する坂手村を併合して市制を布き、さらに三〇年三月三一日、筑波郡真瀬村の一部老田渕及び谷和原村の一部川又を、また、三一年四月一日、北相馬郡菅生、内守谷の二村を編入して現在にいたっている。しかし、併合以前における各村はおのおのその成立の事情を異にし、これを一様に律することはできない。たとえば鬼怒川左岸の沖積低地と、右岸の洪積台地とはそれぞれ地理的環境に差違があるので、その成立もまた一様ではない。そこでまず左岸に位置する旧水海道町、旧五箇、旧三妻、旧大生と一部分編入された老田渕及び川又と、さらに次いで右岸に位置する旧大花羽、旧菅原、旧豊岡、旧坂手、旧菅生、旧内守谷についてその成立過程を略述することにしよう。
 鬼怒川左岸一帯は先にも述べたとおり沖積低地で、水田の造成にはもっとも適したところである。そのため伊奈忠次、忠治は新田開発の力点をここに置いたので、この地帯に成立した村落は、多少にかかわらずその影響をうけることになった。