五箇地区は江戸時代、上蛇、沖新田、三坂新田、上川崎、中川崎、下川崎、福田、福崎とそれぞれ独立した村落で、この地域はいずれも小貝川に沿って南北に長く連なる湿潤不毛の地であったと思われる。ところが、ここもまた伊奈氏の新田開発政策により、福崎村が慶長・元和期に開発され、慶長一三年(一六〇六)には上蛇新田が山崎伊右衛門等によって開かれた。さらに寛永年間(一六二四―四三)には三坂新田が猪瀬重右衛門父子によって開かれ、川崎村が承応元年(一六五二)に開村したことが伝承されている。このように各村の基盤となるべき集落がそれぞれ在地有力者によって開発指導されたことがその特色といえる。また、その過程においては寛永一二年(一六三五)の八間堀川(悪水落し)の開削や、時代は下るが小貝川の大日堂圦樋設置などいわゆる近世における典型的な農村経営の仕法によって形成された村落と考えられる。沖新田については、隣村中妻村の村請による持添新田かどうか不詳であるが、「元禄郷帳」の添書きに「古者中妻新田」と注があり、さらに、元禄一五年(一七〇二)の中妻村検地帳に、「寛文二寅年中妻村沖之新田と記ス、其後元禄年中再御検地之節ニ御水帳拾三状之内弐状右新田江渡シ沖之新田ニ改ニ成申候」とあり、中妻村からこの時期分郷分村したものと考えられる。