三妻地区は五箇地区に隣接し、その地勢は概ね沖積層からなり、一部鬼怒川沿いには旧河道の変遷を示す小丘(砂丘)が南北に連なっている。三妻地区は明治二二年町村制施行によって併合されたもので、もと三坂、中妻のそれぞれ独立した村落で、その成立は中世期まで遡ることができ、宗任神社文書(千代川村宗道)にも、三坂、白畑、山戸内、どべた内(?)、中妻、十家、霊仙寺等の地名がみえる。
戦国末期から近世初期にかけては、下妻城主多賀谷六万石所領であったが、関ケ原役以後所領を没収されたので徳川氏の管地に属した。三坂村の開発名主であった猪瀬重右衛門はもと多賀谷氏の家臣で、近世初頭にはこの地に土着し新田開発に功績をあげたと伝えられている。
正保元年(一六四四)下総古河藩主土井利勝の四男利房が領主となった。この間、関東郡代伊奈忠治の検地をうけるなど近世農村としての形態をととのえた。中妻村開発人の一人である助作(小林氏)は寛永八年に功労として三反歩の除地を受けている。「元禄郷帳」によると、三坂村の石高一七五六石余、中妻村一七五一石余でこの周辺村落では見られない高い村高を示しており、江戸初期から大規模な開発が行われた地域であった。