大生地区は江戸初期の地方文書に「大生領」、あるいは「下妻領大野新田」という名称で出てくるがその由緒については不明であり、また、その範囲も時代的差違があって一定しない。鬼怒・小貝に挾まれた最深低地に位置し、近世以前は恐らく沼沢地か広漠とした荒地と思われ、人が定住した形跡はなかったといえよう。
明治期の町村制によって誕生した大生村は、十花、大崎、兵右衛門新田、平右衛門新田、長助新田、箕輪、中山、相野谷、新井木、小山戸の旧村落からなるが、元禄以前に大生領に含まれている村は十花から箕輪の六か村と五箇地区の川崎村(上・中・下)を合わせた九か村であり、元禄末期の悪水堀(八間堀)が整備されたころは水海道、三坂新田外四箇村を含めた一五か村となっている。
大生領の村々が近世的村落を形成するのは寛永初期で、「十花村新田起立之事」(『北総雑記』富村登著収載)に見られるように、戦国末期の土豪が帰農し開発する型が多い。大崎村・平右衛門新田・兵右衛門新田等も同じ伝承を持っていて村名もこれに因んでいる。相野谷、新井木村については、もともと水海道村新田であったが、万治二年(一六五九)領主の給地替えに伴って分村し本村から名主が移住した記録があり特異な経緯をたどっている。
寛永七年(一六三〇)、大生領の村々は伊奈忠治の検地を受け天領となるが、貞享年間から元禄期(一七世紀末~一八世紀初頭)にかけて旗本領との相給支配が続いた。元禄一〇年(一六九七)の文書に「年々水損地ニ罷成百姓迷惑仕候事小貝川水除堤所々水当り―中略―二十年此方堤三四度押切」とみえ、水害の常襲地帯であったことがわかる。